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生きづらさの名前だけでは見えないもの

16personalities、MBTI、生きづらさ、毒親、HSP、発達障害、精神疾患、AC…etc… 今まさに、大生きづらさ時代である。
生きづらさを主張する人が増えてきたこの時代だが、様々な生きづらい状況が研究され、たくさんの生きづらさが発見・発掘され、それに対する「名前」がたくさん作られている。このようにたくさんの生きづらさの発見と名付けによって、「自己責任」が求められる大人の社会に対し、他の人よりハンデを負っていることが証明され、それに伴いたくさんの援助方法も出回っている。たくさんの人達の努力によって、当事者である私も含め、このnote上などでもたくさんの恩恵を預かっている。有益な情報にアクセスしやすいし、自分が投稿する記事も、「INFP」とタグをつければ、沢山の方が見てくれる。このように性格や生きづらさの言語化の進歩については、たくさんの方に感謝と尊敬の念が絶えない。

その一方で、過剰なまでの16personalitiesの流行に対して、専門学者ではない人たちの大量の情報発信によって、しっかり見定めないと、どれが信頼性の高い情報なのか不明になってしまっている。この状況は、16personalitiesやMBTIに疑念を提唱しているたくさんの方の発信を見ると良いかも知れない。人間の性格はたかだか16個に分けられるわけではない、全くを持ってそのとおりだと思う。16personalitiesの膨大な決めつけ情報はもちろん、そもそも性格や個人の状態・生きづらさに「名前」をつけることの特性上気をつけなければいけないことを、自分にも言い聞かせるつもりで書いていきたいと思う。

一つ大前提として言いたいことは、人間というのは基本的に、他人と「全く同じ」ということは有りえないのである。DNAが99.9%同じ一卵性双生児を、常に2人同時に行動させて全く同じ体験を与えればそれはかなり「同じ」に近いと思うが、そうでもしない限り、全く同じ状況というのは無いのである。何を当たり前のことを、と思うが、この十人十色であるという大事な前提を忘れてしまっている、あるいは気づいてない人はいるんじゃないかと思う。同じ生きづらさの名前、性格の名前がついているからと言って、全然違うDNA、環境のため、共通することは早々ないのである。
ではなぜ、一人ひとりが全く違う人間に対して、グルーピングして性格や生きづらさの「名前」がつけられるのか。それは「抽象化」し、「共通性」を見出すことで可能になるだろう。ここではあえて、共通「点」というより、共通「性」とよびたい。共通な特徴や事象はあれども、それを「共通する」と認識するためには、ある「側面」に立つ必要があり、その面から見れば同じ、ということである。子供に反抗期、というものがあるが、反抗している子供は、「親や年上の家族に対する反抗的態度・意思」という抽象化した側面では同じだが、使う言葉、振る舞い、表情は子供一人ひとり違うのである。冒頭で触れた、近年流行っている「生きづらさ」を表す「名前」も、抽象化され、一側面を切り取っているため、その対象者の具体的な状況は言語で言い表せることはできないし、言い当てるにも大きな限度があるのである。16personalitiesや、MBTI、HSPの性格や立ち居振る舞いを言い当てている文章について、あたっている確率は、20〜50%くらいに思っておいたほうがいいんじゃないかと思う。

また、人間の性格、表情、行動は時間を経て様々な環境に置かれ、経験することで、みるみる変わっていくものである。その時系列まで含めて、あらゆるネットにあふれているようなたかだか数百、数千文字で表せるわけがないのである。書いてあるのは、大半が抽象化された詳細ではない特徴、希望的観測や周囲の人の特徴を書き出した詳細な文章に過ぎないだろう。それだけ、人間の性格を言語化する、というのはかなり難しいということである。
このように、特に今流行りの16personalitiesやHSPについては、情報の信頼性に気をつけたほうが良いだろう。だからこそ、「こうしたほうがいいよ」という対処法やアドバイスについても、前提が自分と違う可能性も考えておくべきで、頼りすぎてはいけない。ネットに乗っているのはたかだか「個別のケース」であったり、「名前」がつく人のうち半分以上の人には有効そうだよ、あるいは、特に根拠もないが有効だと言っているのかも知れない。
しかし、世の中にはもちろん、あらゆる名前のついた「生きづらさ」に対して、援助の実績を上げているものもあるだろう。科学的・医学的に証明・定義されている「名前」であればなおさらだろう。そうしたものでも、場合によっては、その対処法の適合確率は、良くて80%〜90%ではないだろうか。全く同じ特徴を持つ人間は居ないので、「科学的に大半の人には効くことが立証されている方法をとるよ」という対応になるだろう。

こうした状況の中で、当事者や支援者たちはどうすればいいのか。私はどうすればいいのか、今の考えを自分に言い聞かせるように書いていきたい。
そもそも、性格、心理状態、精神状態は目には見えないものである。そうしたものの特徴を適切に捉えて、上手にコントロールしていくのは、人間にとってかなりの至難の業である。科学・医学は発達していても、難しいものは難しいのである。だからこそ、ネットに書いてあるような金太郎飴のようなみんな同じ対応では上手くいかないことも多いはずである。その当事者や支援者が一般情報だけでなく、実際の状況に向き合うことが何よりも大事だと思う。

そもそも、「名前」が抽象化されている以上、そこから導き出される対応も抽象的なものしかできない。「私はHSPだ」ということだけわかったところで、本来何も具体的な対応はできないのである。自分の内面についてできる限り詳細に言語化し、向き合っていかなければ行けないのである。
世の中には、たくさんの生きづらさの「名前」に適合する人がおり、抽象化された「名前」とはいえ、いくつかを組み合わせることでその具体性、詳細性は上がっていくものである。つまり、「名前」を得るために様々な診断をしていくことは、もちろん自分の内面を言語化し、向き合うことに大いに役立つ。当事者が自分だけではないという安心感もあるだろう。しかし、最終的には自分の内面を言語化し、向き合うべき課題と向き合えなければ物事は進んでいかないのである。

自分も、生きづらさを抽象化した「名前」にすることで、ある程度の満足感を得て、それから先に進まない時期もあったが、それでは根本解決に至らず、適応障害になった原因の一端でもあると思う。ただ、その時の状況において、言語化できなかったり、自分と向き合うことができなかったりするだろう。私も当時は当時なりに頑張っていたことは間違いない。言語化と自分と向き合うことの重要性を認識できたので、今後は自分はどうするのかを「名前」に頼りすぎずに決めていきたいと思う。自己紹介は「名前」をなるべく使わないようにしたいし、「HSPだから人と会いたくない」はやめようと思う。

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