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ルソー『社会契約論』を読む(号外) ルソーにおける「執行権」の概念とその所在

以前書いた記事の中で、とあるコメントをいただきました。そのコメントは、「ルソーにおいて「執行権」という概念はあるのか?」という内容。

 こうして私の書いた記事にコメントを頂けるだなんて・・・と嬉しく思っています。と同時に、いただいたコメントが上記のような「質問」でしたので、今回はその質問に対して、私の知りうる限りでお答えする、という回にしたいと思います。

 いつも記事を読んでくださっている方々に、改めて御礼を言わなければならない、と思います。皆さま、いつも読んでいただき、ありがとうございます。

 また、こうした形でコミュニケーションが取れることにも、とてもありがたく思っています。どうか、たくさんのコメントをお待ちしています。

 それでは、本題に入りましょう。


立法権と「執行権」

 まず、ルソーが、立法権と執行権を、鮮やかに対照させながら論を展開している箇所を見てみます。

立法権・・・人民に属し、人民以外の何ものにも属しえない。
執行権・・・立法者あるいは主権者としての一般者には属しえない。
『社会契約論』第三篇第一章(p.164)を要約

そして、この対比をより正確に理解するために、次のことも確認しておきましょう。

主権 = 一般意志の行使
『社会契約論』第二篇第一章(p.131)を要約

つまり、主権とは「一般意志を行使すること」を意味するのです。また、その一般意志が「正しい」ものである証拠は、

「我々」と言ったときに、「自分」のことを考えない者はいないから
『社会契約論』第二篇第四章(p.137)を要約

だと言います。要するに、「我々」の意志である一般意志は、当然「私自身」を含んだ「全員」の自己保存を満たすように作用するのです。だから、一般意志が、だれか個人の自己保存に不利益になるような働きをするはずがなく、それゆえに一般意志は「正しい」のです。しかし、

一般意志は、それが本当に一般意志であるためには、その本質においてと同様、その対象においても一般的でなければならない。一般意志はすべての人から発し、すべての人に適用されなければならない。一般意志が、なんらかの個別的な限定された対象に向かうときは、われわれに無縁のものについて判断しており、われわれが導く真の公平の原理を持っていないわけだから、その場合には一般意志は本来の公正さを失う。
『社会契約論』第二篇第四章(p.137-138)より引用

と述べられるように、「一般的」であるべきはずのものが、「特殊的」な対象に向かうとき、その「正しさ」は損なわれる、とルソーは考えます。

 さて、最初の「立法権」と「執行権」の対比を改めて見てみましょう。

立法権・・・人民に属し、人民以外の何ものにも属しえない。
執行権・・・立法者あるいは主権者としての一般者には属しえない。
『社会契約論』第三篇第一章(p.164)を要約〔前掲したものと同じものです〕

以上の議論を踏まえると、執行権が「主権者」の行為ではないとされている理由が、「特殊的な行為からのみなるものだから」(p.164)だということが徐々に明瞭になってきます。コメントを頂いたときの記事で、des actes particuliers qui ne sont point du resort de la loi(法が行える範囲には全く入らない特殊的な行為)というフランス語原文を紹介しました。この「特殊的な行為」こそ、ルソーによると「執行権」なのです。

 したがって、質問の端的な答えは、「執行権という概念は、ルソーにおいて存在する」ということになるでしょう。


法の「執行」

 では、その執行権とは、いったいいかなるものなのでしょうか。せっかくいただいた機会なので、もう少し詳しく見ていきます。

 ルソーが「法」と呼ぶ行為は、以下のように定式化できそうです。

法・・・一般意志が政治体に運動と意志を与えること
『社会契約論』第二篇第六章(p.143)を要約

つまり、「法」あるいは「立法」は一般意志の行為なので、先に述べたように、「立法権」は一般意志を持つ「主権者」に存するということになります。また、ここで一般意志によって運動と意志を与えられた「政治体」こそ、その法の「執行者」である、ということも同時に明らかになることにも、気が付かれるでしょう。

 こうした国家のことを、ルソーは共和国と呼びます。

共和国・・・法律によって統治された正当な政府
『社会契約論』第二篇第六章(p.145)を要約

そして、この「共和国」という用語を持ち出したとき、ルソーはこんなことも述べているのです。

正当な政府であるためには、政府は主権者と混同されてはならず、主権者の意志の執行機関でなければならない。そのさいは、君主政でさえ共和的である。
『社会契約論』第二篇第六章(p.145)より引用

政府は、主権者の制定した法の「執行機関」と見なされます。つまり、ここで明らかになるのは、「執行権」の担い手が、政府である、ということです。

 さて、ここまでの議論をまとめておきましょう。

立法権・・・主権者にのみ属する。
執行権・・・主権者には属さず、政府に属する。
ここまでのまとめ

 ここまでのことを確認すると、ルソーの次の言葉がよく理解できるようになるはずです。

だから、私は、執行権の合法的行使を統治(Gouvernement)または最高行政と呼び、この行政を委託された個人または団体を統治者または行政官と呼ぶ。
『社会契約論』第三篇第一章(p.165)より引用

 そして、行政を「委託された」という言葉からもわかるように、

法を実行に移すための力にすぎない執行権は、人民が代表しうるし、代表されなければならない
『社会契約論』第三篇第十五章(p.204)を要約

とルソーが考えていることもお分かりいただけるかと思います。


まとめ

 したがって、最初に立法権と執行権が対照的に描かれている、ということを確認しましたが、改めて最終的に、

立法権・・・主権者にのみ属する。決して代表されえない。
執行権・・・主権者には属さず、政府に属する。代表されうる。
今回の記事のまとめ

ということをまとめておきましょう。

 あくまでも「主権者」の手で国家をより良いものにしようと考えていたルソーですから、当然のことながら、執行権は存在しますが、その位置づけは立法権の下に置かれる、という構図になっているわけです。これが、ルソーにおける「執行権」の概念とその在り処なのです。


皆様へ

 最初にも述べましたが、こうやって質問までいただけるということは、私にとってすごく名誉なことです。このnoteを始めたときに最初に書いた記事で、こんな所信表明をしたことがあります。

私はこのnoteを書くことで、私自身の独りよがりなルソー理解を克服したい、と思っています。いわば、私自身が、「学習者」なのです。哲学の専門的な研究者ではない私が、あえてこのようなnoteを試みるのも、何よりもまず自分の勉強になるだろう、と考えたからなのです。
「ジャン=ジャック・ルソーという生き方」より

今回も、「執行権」の概念をルソーがどのようにとらえているのか、ということについて、ものすごく勉強になりました。ぜひ、今後も皆様にたくさんのコメントをいただき、ともにルソーを楽しむ「ルソーライフ」を歩んでいけたらと思っています。

 それではまた、次の記事をお楽しみに!


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本文中に示したページ数は、いずれも

『ルソー全集 第五巻』作田啓一訳、白水社、1979年. のページ数を示しているものとします。なお、途中に引用したフランス語原文に限って、Rousseau, Jean-Jacques. Du contrat social, Œuvres complètes, III, Éditions Gallimard, 1964, p.395. から引用しています。

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