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ルソー名言集 ~『学問芸術論』編~


 今まではルソーの著作の読解を中心に記事を更新してきました。ありがたいことに、長文かつ抽象的な内容の記事が多いにもかかわらず、たくさんの方に読んでいただいております。

 もう一つ、「1分で分かる」シリーズを、各著作の読解記事が完結したのちに更新していますが、こちらも好評です。

 とはいえ、両者の記事は若干読者層に違いがあるようです。前者の硬派な記事はフォローをいただいている方々に、後者の記事はフォロー外の方々に、多く読まれています(あくまで傾向がある、というレベルですが)。

 そこで、ちょうどついこの間、『新エロイーズ』の連載を始めたばかりですので、硬派な記事(前者)はカバーできていると信じて、ルソーをあまりご存知ない方々にもルソーを知っていただくきっかけになるようなものを書いてみようと思います。ご笑覧ください。

 とはいえ、こうした名言集や格言集はネットで検索をかければそこら中に転がっています。ではなぜあえて二番煎じのようなことをするのか。主に、以下の二つの理由があります。

①ネット上に転がっている名言集の類は、出典が明記されていないことがほとんどです。せっかく感動的な文章を見ても、それがルソーの書いたことだということだけが分かって、どの著作の何ページなのかが分からないことがままあります。でも、出典が分からなければ自分でその文章にアクセスするのが困難になってしまいます。

②上記①と付随しますが、こうした名言集というものは、多くの場合、キャッチーなフレーズだけが独り歩きして、その文章の本来の意味(文脈や微細なニュアンスなど)が損なわれてしまっています。ひどいときはルソーが一言も発していない言葉が採録されているケースすら見受けられます(代表例は「自然に帰れ」でしょうか)。

 今あげたような難点を補っていけるような名言集を作りたい、と思っています。ひいては誰もこれまで取り上げてこなかったようなルソーの名言を紡ぎたいところです。

 なお、今回の『学問芸術論』についての引用はすべて『ルソー全集』(白水社)からです。頁数は白水社版『ルソー全集』の該当頁を示します。

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学問、文学、芸術は、それほど専制的ではないが、おそらくはるかに強力なものであり、人間がつながれている鉄鎖を花飾りでおおい、人間がそのために生まれてきたと思われる根源的な自由の感情を抑圧し、奴隷状態を人間に好ませ、いわゆる洗練された国民なるものをつくりあげている。欲求が王座を築きあげ、学問と芸術がそれを強固なものにしたのだ。(p.16)
いかなる欲求をももたない人間たちに、どのような束縛を課しえようか。(p.16)
今日では、より精緻な研究とより洗練された趣味が、人を喜ばす術を道徳律にしてしまい、われわれの習俗は悪しき、偽りの画一性に支配され、すべての精神は同一の鋳型に投げこまれているように思われる。たえず礼節が要求し、行儀作法が命令している。たえず人々は慣習に従い、おのれ自身の精神にけっして従うことはない。人々はもはやありのままの自己をあらわそうとはしないのだ。(p.17)
われわれの学問、芸術が完全なものへと進歩するにつれ、われわれの魂は腐敗したのである。それはわれわれの時代に特有な不幸であると言えるのだろうか。そうではないのだ。われわれの空しい虚栄心によってもたらされた諸悪はこの世界とともに古くから存在している。大洋の潮の日々の干満は、夜われわれを照らす天体の運行に規則正しく支配されているとはいえ、それよりもはるかに、習俗と誠実の運命は学問と芸術の進歩に支配されている。学問と芸術の光明がわれわれの地平にのぼるにつれ、徳は消え失せたのであり、そうした同じ現象はあらゆる時代とあらゆる場所に見出される。(p.19)
天文学は迷信から生まれ、雄弁術は、野心、憎悪、虚偽から、幾何学は金銭欲から、物理学は空しい好奇心から生まれたのだ。そして、いっさいのものが、道徳でさえも、人間の傲慢から生まれている。したがって、学問、芸術はわれわれの悪徳から生まれたのであり、もしそれらのものが、われわれの美徳から生まれたものであるならば、学問、芸術の利点についてそれほど疑いを抱くようなことはあるまい。(p.27)
芸術は、それを養う奢侈がなければ、どうなるであろうか。人間の不正がなければ、法律学はなんの役に立つであろうか。暴君、戦争、陰謀家がなければ、歴史学はどうなっているだろうか。(p.28)
人は知ることが少ないほど、より多く知っていると思うのだ。(p.28)
無為のうちに生まれた学問は、それ自体で無為を育てる。そして時間の償いがたい浪費こそ、学問が必然的に社会に与える第一の損失である。(p.29)
時間の濫用は大きな悪である。そして、それよりもなお大きな悪が文学と芸術に付随している。たとえばそれは、文学や芸術と同じように、人間の無為と虚栄から生まれた奢侈である。奢侈が学問や芸術をともなわないことはまれであり、学問や芸術が奢侈をともなわないことはけっしてない。(p.30)
生活の便利が増大し、奢侈が広がるにつれ、真実の勇気は衰え、武人の徳は消滅する。そしてそれはまた、学問および薄暗い仕事部屋でつくられる、いっさいの芸術の仕業なのである。(p.33)
才能の差別と徳の堕落によって人間のあいだに導き入れられた呪うべき不平等から生まれたのでないとすれば、いったいどこから生まれたのであろうか。(p.36)
役に立つ才能よりも受けのよい才能の尊重が、いたる所で、長いあいだにわたり生みだしたものであり、学問と芸術の復興以来、経験があまりにもはっきりと確認していることである。(p.37)
ともあれ文学の仕事において、遠く進むことのできないような人々は、すべてその入口において退けられ、社会にとって有益な技術にみずからを投ずることが望ましい。(p.40)
ベーコン、デカルト、ニュートンのような人々、こうした人類の教師たちはみずから師をもたなかったのであり、たとえどのような指導者でも、彼らがみずからの広大な才能によって到達した地平にまで彼らを導きえなかったであろう。(pp.40-41)
凡庸な教師になしうることはただ、彼ら(ベーコン、デカルト、ニュートン)の知力を教師の限られた知力の範囲に閉じこめ、それを狭めることだけであったろう。(p.41)
精神は知らずして精神を占めている対象に釣合っており、偉大な人間をつくるものは、偉大な機会なのである。(p.41)


 いかがでしたか?次回は『人間不平等起源論』の名言集をご紹介します。

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