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大学院に行こうと思ったきっかけ

今日はどうして大学院にいきたいと思ったの?というところをお話ししたいと思います。

色々な理由があるのですが、そもそも・・・は、留学をして、多様な価値観に触れたかったということがあります。話は子どもの頃に遡ります。

私は小学校6年生のときに親の仕事の都合でアメリカのNYに渡り、それまでは日本の私立の小学校で毎日スカートの制服を着て通っていたのが着いて3日後からアメリカの現地の公立中学校にジーンズで通うようになりました。その3年弱の経験は本当に大きく、世界は広いこと、自分の物差しだけでは人や他のことは測れないことを中学生ながらにさまざまな経験を通して体感しました。そうした経験から「泉ちゃんって◯◯だよね」、と決めつけられるのが何より嫌だし、自分も物事や人を見たときに短絡的な判断を下さないようにしたいと心から思うようになりました。ですからそのくらいからかな、元々の性質+意識的にも「自分の知らないことはたくさんある、限られた人生だけど、だからこそ色々なものを見たい!知りたい、あわよくば理解したい」と思うようになりました。その原体験がアメリカだったこともあり、見たい!知りたい!の中に、日本だけでなくて"世界"という軸ができたのだと思います。
NYの中学校を卒業してからは日本の中学校3年生の夏に帰国、高校受験を経て、慶應義塾女子高等学校に入学。そのまま慶應義塾大学の法学部政治学科に進みました。
大学では、高校から学び始めたフランス語を週4回学ぶインテンシブなコースも受講。そのコースではおよそ3分の1から2分の1の学生が何らかの形でフランスへ留学していたほどでした。ちなみに私も大学4年生から社会人の3年目くらいまでは毎年フランスに1人旅に出ていました。
もちろん英語もブラッシュアップしたかったので、英語の上級クラスも取っていました。こうしてみると留学する・できる素地はあったのですが、私は本当に色々な方向に憧れや好奇心があり、大学では授業の他に初心者から体育会のゴルフ部に入るという選択をしていました。今はわかりませんが、なかなか当時大学の体育会(部活)に入りながら途中で留学をするという選択しはなく、また大学3年生からはアナウンサーになりたいという目標も持って活動していたため、学生時代のうちに留学することはありませんでした。

ただ、大学卒業後NHKに入ってもその気持ちは変わりませんでした。私はNHK時代富山局・大阪局・東京アナウンス室と勤務したのですが、そもそもNHKに入った理由の一つに日本のことを世界に伝えられる、世界のことを日本に伝えられる放送局だったからということがありました。入局時から海外での現地取材をしたいと話していたことをよく覚えています。
NHKはアナウンサーでも番組などを企画・制作をします。特に地方局時代は多いのですが、富山局でも私は富山の人に向け自ら制作したテレビリポートを全国展開・そしてNHK WORLDという国際放送に展開したり上司にいずれ留学したいという旨を話したりしていました。当時の上司はそれを応援してくれましたが、自分でもまずはアナウンサーとしての足腰を鍛えなければどうにもならないと思い、大阪局でもそうした話はしていたものの、東京アナウンス室に移ってから折に触れてより強く願いを伝えるようになりました。大阪局以降は一貫して報道番組(大阪局では大阪・関西圏の夕方のニュース番組のキャスター、東京アナウンス室ではニュースウオッチ9のリポーター・クローズアップ現代+のキャスターを務め、現場を取材して伝えるというやりたかった仕事につかせてもらっていました。)に携わり、その中でも現地で感じたこと・わかったことを自分の体を通して伝えることにやりがいを感じていたので、留学をすることはアナウンサーとしても人間の幅を広げる上でも非常に役に立つと思っていたのです。しかし、当時のアナウンス室にはそういった土壌がほとんどありませんでした。もちろん全員とは言いませんが記者やディレクター向けの留学・短期留学制度はあっても、アナウンサーが留学することに理解を示す人はそこまで多くなかったというのが私の印象です。(私がNHKを辞める頃になってそうした状況が少しずつ変わってきている感覚もあります。)

しかし、そうしたなんだかなあ・悔しいなあという思いがあったからこそ、仕事の休みを使って、(もちろん上司の許可は得て)スイスの大学が主催する国際的なシンポジウムに参加したり、日米の若手のリーダーが切磋琢磨するプログラムに応募して参加したりするなど、自分のできることをやろうという形で動いた結果、私にとってとても大事なつながりができたので、逆に感謝している部分もあります。また、こうした意識とさまざまなチャンスもあって仕事上でもニュースウオッチ9では北朝鮮の金正男の暗殺でマレーシアから2週間取材し・中継を出し続けたり、クローズアップ現代+ではたびたび海外での取材も担当させていただけたりと海外とのつながりが増えてきました。もちろん国内の取材も大好きです。海外だからいい悪いということではありません。しかしやはり外国に行くと、新たな視点が増えるし、何より自分が知らないことの多さに人として謙虚になれます。日本のこともまたいつもと違った目線で見ることができます。

ここまでの話とは少しずれるのですがその後2019年に私はより組織の枠を超えて自由に共感するプロジェクトに携われる状況でいたい、という思いを持ってNHKをやめました。そしてやめることを決めてからありがたいことに子どもを授かりました。自分の中に子どもが小さなうちはできる限り向き合って過ごしたいという思いがあったので、昨年の秋に息子が2歳になるまではほとんど仕事はせず、成長を見守ってきました。これまで仕事を始めてからずっとずっと駆け抜け続けてきたので、日々の生活を大事に家族と過ごす時間はとても学びのある時間でした。と同時に、その2年間はこの先どのように過ごしていこうか、どう今の自分は働きたいかなど常に頭のどこかでこれからの自分の働き方やあり方について模索している状態でした。
そしていつしか大学院のことは少し頭から離れていたのですが、去年の夏、家族でアメリカに1ヶ月半ほど滞在していた時に色々な人と出会って話をする中で、30代で仕事もしながらイキイキと大学院に通う女性や子どもを持っても自分らしく働く女性の姿を見たこと、そして信頼する人からのアドバイスとして、目先の仕事に一喜一憂するのではなく長期的に活動できる状態にしたら良いという言葉をもらい、再び、ここから何かを学ぶのも良いかもしれないと思い始めました。

アナウンサーとして長年働いてきて、かつ担当させていただいた番組の性質もありこれまで本当に色々な人に出会わせていただいてきました。その中には毎日のようにキラキラと輝いて(少なくとも周りからはそう見える)色々な挑戦をしている人もたくさん。産後はそういう人と比べると焦ってしまうこともありましたが、今している育児という尊い仕事、そしてこれまでしてきたことを棚卸ししてみると、自分もやっぱりどの瞬間も大事に一所懸命過ごしてきたことがわかりました。
であるならば、やっぱり大事な命を与えられたのだから誰かと比べるのではなく、自分らしい道を行こう、そんな気持ちになれた去年の夏でした。
日本に帰国してから最初はアメリカに留学することを模索したのですが、まだ子どもが小さいことや夫の仕事の形態、もちろん学費や生活費も莫大にかかること、そしてコロナ禍だということなど色々なことを考慮して、ひとまず日本で探すことに決めました。それでもこれまで書いてきたように私の中には国際的なものに触れたいという思いがあります。ですから、日本の中でそういった環境がないかを調べた結果出会ったのが今通っているGRIPSでした。

あれ、結構長くなりました。結局国際的なものへの想いみたいな話に収斂していった気もします。まだどうして学びたいと思ったのか公共政策を学ぶことに至ったかにはいきついていませんが、ひとまず大学院に行こう!と思った理由について最初に思いついたのはこんなところです。本当にこのnoteについては何も考えずに書き始めているのでご容赦くださいね。
またこの先、どうして今学んでいるコースにしたのか、ここでどんなことを得たいのかなども書いていきたいと思います。


今日は息子と夜ご飯を食べてお風呂に入った後暖かく着込んで外に出てしばらく皆既月食を眺めました。
神秘的だったなあ。
皆さんも良い満月の夜をお過ごしください。

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