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私と私の思想(2)

初めてついた嘘

前回は誕生〜2,3歳の頃の話だったが、小学一年生の頃の話をば。

それは6月のもう梅雨時。小学校に入学してはや二ヶ月で、昼休みに「歯磨き教室」なるものが開催されるということだった。先生からの言いつけにより、その日は母から手鏡を借りて学校に向かったのだった。

昼休みを迎え、「歯磨き教室」を終えて一息をつく。
後ろの棚─教室の後方にある生徒用の物置棚に手鏡をしまおうとした。

その時だった。

「あっ…」
私は手を滑らせた。それは一瞬であったが、ものすごく長い時間に思えた。50センチあまりの高さから垂直落下した手鏡は鏡面を床に向け、

「パリィィン…」

音を立て、一度着地したそれはそれきり動かなかった。
そんなときの月並な感覚ではあったが、割れたのであろうそれを持ち上げる気には一切ならなかった。

しかし、はっと思い立ったかのように、手鏡をもともと包んでいた布に戻し、後ろの棚にしまった。

それだけで私は終わらなかった。職員室に足を運び、担任の先生を呼んでこう言ったのだ。

「先生、僕の鏡が割られていました。」と。

詳細を尋ねられると、私は歯磨き教室のあとは廊下にいて、私が教室外にいる間に割られたはずだと答えた。

その後は教室で犯人探しが始められた。私は教卓の前に担任と並ぶ。
担任は全員に顔を伏せさせて言った。
「泉くんの鏡を割ってしまった人は手を上げてください。」

静まり返る教室。手は当然誰も挙げない。三度ほど担任はこれを続けたが、一向に挙手をする者はいない。

「泉くんからなにか言いたいことはありますか?」いきなり担任から尋ねられた。私は何を思ったのか、「後ろの棚の近くには、想太くんがいました。想太くんが犯人だと思います。」とごもりながらも言ってのけた。ここまで酷い嘘をついておきながら、この頃の私はそれをなんとも思っていなかったのだ。担任は「想太くん、本当ですか?」と尋ねると、「僕はしていません。泉くんが後ろの棚のところにいたときに鏡が割れていました。」私とは異なり、堂々と答えた。教室の生徒の視線が一気に僕に向かう。担任の目は恐怖心故に見ることはできなかった。その時、上から声が聞こえた。「泉くん、これは本当のことですか?」

はい。僕が自分で割りました。」私の声は今にも枯れて消えてしまいそうで、そのまま泣き崩れた。顔を濡らしながらも立ち上がり、教室の皆に謝罪した。嘘をついてごめん、正直に言えなくてごめん、と。

すると、1人近寄ってくる子がいた。
それはあの想太くんだった。私はすぐさま謝った。
「想太くんのせいにしてごめんなさい。」
然し、想太くんは怒ることなくこう言った。
「鏡が割れたとき、気づいて何も言えなくてごめんね、また何かあったら何でも僕に言ってね。」
私はまた泣いた。私は彼に罪をなすりつけ、貶めようとした。
そのような私の罪深さに対し、優しさで応えてくれたのだった。
うん、うんとばかりに頷くと、彼は手を握ってくれた。
その手は心地よい温かさで、なんとも言えぬ安心感があった。その温もりにまた涙したのだった。

少し離れたところにいる担任が目に入った。彼女は私に微笑みかけてくれていた。

後に聞いた話だが、担任は私が職員室を訪れたときから私の嘘を見抜いていたそうだ。それでも敢えてその場では指摘しなかったのだという。
それは何故か、私は尋ねた。担任はこう言った。

「幼い頃はどうしても過ちは犯すもの。でも私達教師の仕事は過ちを叱ることではないの。どうしたら生徒が人間として正しい道を歩めるか、そのための指導をすることよ。現に、あなたももう嘘をついてあのような状況に立ちたくはないでしょう?生徒の仕事は過ちから学んで、少しづつでもいいから成長することよ。」

あの経験から、私は嘘をつくことはほぼなく育ち、友人も増え、信頼を得ていった。ただ残念なのが、想太くんは父親の仕事の関係で他県へ転校してしまったことだ。然し、担任の言葉は未だに心に刻みこまれている。

それは私が教師を志す一つのきっかけともなった。


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