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片腕のない祖父のこと

今日は私の祖父の話に、少しお付き合いください。

父方の祖父は大正15年生まれ。大正、昭和、平成、令和と年号を四つ分も生き抜いて、今年の春で94歳を迎えた。大好きな祖父の半生を一度、書いてみたいと思っていた。

第一章 生い立ち~戦時中 海軍航海士として

祖父は北陸のある田舎町に、6人きょうだいの三男として生まれた。2番目の兄は幼くして亡くなったそうで、実際には祖父が次男という立場だった。小学校低学年のとき、産後の肥立ちが悪かったことにより、母親も亡くなった。義務教育修了後は商船学校に入学、一等航海士の資格を取得。その頃日本は第二次世界大戦に突入していた。祖父は海軍に入隊し直接戦地には赴かなかったが、海軍輸送船にて物資を配送する任務に当たった。当時二十歳前後と若くはあったが、チーフオフィサー(ざっくり言うと船長に次ぐ責任者)を務めたそうだ。

ある晩、祖父はいつものごとく海上で船を進め、九州から大陸方面へ向かう途中、米軍戦闘機からの攻撃に遭った。船は大破し、祖父は左肩を打ち抜かれた。激痛と出血多量で意識朦朧とする中で海に投げ出され、水平達が筏に引きずり上げてくれ、生き残った数人でしばらく夜の海を彷徨ったらしい。そこに偶然にも、他の軍用船が通りかかり救出される。その後病院に運ばれたが、すでに左肩から下は壊死してしまい、切断手術を行うことに。その際に輸血を申し出てくれたのが、中国人の看護師さんだったらしい。当時中国と日本の関係も悪化してはいたが、国境も人種も戦渦をも超えた彼女のその行動。「一生忘るまじ御恩であり、死ぬはずの自分が奇跡の連続で生かされたのには意味がある、これは天からの命(めい)だ」、と戦後70年経った今でも言っている。

そんなこんなで、命からがら生き延びて、全財産は配給された手ぬぐいと歯ブラシのみ、という状況で帰還した。村では祖父の乗った船が大破して乗務員はほぼ死亡、とだけ伝えられおり、遺骨も何も無く本人の葬式を済ませた後だったので、誰もが驚愕し家族は香典を返しに回ったそうだ。

ちなみに銃弾があと15センチずれてたら、心臓に命中して即死だったらしい。「じいちゃんは強運やぞ、左手に天下取りの相、ますかけ線があったもんな。」とよく言っていた。その左手を、見ることも触れることも私は一生出来ないのだけど、強運なのだけは間違いないと思う。

そしてここから日本は戦後、祖父の人生第2幕が始まる。(ここまですでに長いよね、うん。あとしばらくお付き合い願います)

第二章 戦後、地域の教育者として

じいちゃんは隻腕の一級障害者となり、お見合いも何度も断られたという。何度目の正直だったか、ばあちゃんと出会い結婚に至り、私の父を含む三児に恵まれる。同時に通信制の大学へ入学、卒業後は英語教師となった。

金八先生並の熱血指導と、持ち前の人の良さとユーモアと、九死に一生を得てからの使命感で、じいちゃんは地元では名の知れた校長先生になった。更には講演会や執筆活動も精力的にこなし、教育関連の本がヒットした。印税も入り自宅を増改築リフォームし、だだっ広くなった我が家の中には、一時期電話が親機子機あわせて6台、書斎にはコンビニで見かけるような大きなコピー機も入った。会社か。敷地約200坪、自慢の日本庭園には毎年庭師が入ってくれた。タクシーに乗る際に住所を言わずともじいちゃんの名前を出せば、家まで連れて行ってもらえた事もあった。有名人か。88歳の米寿を迎えた年、長年の功績を讃えられ、ついに国から叙勲・瑞宝双光章を授かった。

ここまで書くと何だか偉そうに聞こえるけど、何とも人間味に溢れた所がある。お酒が大好きなのだ。確か私が物心つく頃から「酒は百薬の長」を合言葉に毎晩一人晩酌をしており、晩年は持病の薬まで日本酒で流しこもうとしていたので、私達家族はさすがに呆れていた。

さらに愛煙家でもあったが、一度書斎から煙が出てボヤ騒ぎになり、ばあちゃんにキツく叱られた。以後毎年元旦には「今年こそ禁煙するちゃ」と宣言するものの、数日後大好きな箱根駅伝をテレビ観戦する頃には、もう煙を燻らせていた。90歳を過ぎた今はさすがに止めたけど。

あとはお調子者なところも少し。ばあちゃんが畑で丹精込めて育て上げた野菜を、通りすがりの女性にあげてしまったり、デジカメを初めて購入した際には知らないオバサン(じいちゃんにしたら若い女の人)の写真が何枚も撮られていたり…『酒と煙草と女』エピソードは、うん、この位にしておこう。

じいちゃんから学ぶ、豊かさ

手ぬぐいと歯ブラシのほぼ無一文で帰還した片腕のじいちゃんは、努力と人柄と強運か、沢山の財産を持つ事になった。お金を都合してほしい、と頼みに来る人も何人かいた。じいちゃんが、家族に一度漏らしたことがあったそうだ。

「お金があるより、両腕がある人生の方が良い」と。

私は考えさせられた。戦争を生き抜いた祖父にとって、今この時代に生きる私達にとって、豊かさとは何なのか。(ハイ!ここからが主題です!)

弟や母を亡くした時は「絆」であり、戦争時は「平和」であり、負傷後は「健康」で、家庭を持ち猛烈に働いた時代はきっと「お金」だったことだろう。そしてそのどれもが否定できない要素で、きっと正解なのだと思う。

更に私はそこに付け加えたい、祖父の人間性について。優しく逞しく朗らかで、お人好しでお酒が好きで、地域の沢山の人に慕われて。彼が人一倍持っているのは「人間味」と「人徳」なのだと思う。私はそこに一番の豊かさを感じる。

だからこうまとめてみたい。豊かさとは”その人により、その時により、主観や状況で全く異なるもの”であると同時に、”今ここに幸福感や満足感を感じさせるもの、そして未来に、可能性を感じさせるもの”だと。

祖父は何歳まで生きてくれるのだろう。本人は100歳まで生きたいと願っているそうだ。現在94歳の生命力に、私は今もなお可能性を感じている。

祖父の片腕は70年以上前に失われたけど。必死に懸命に生きてきたその姿がもたらした「豊かな」人生は、図らずもその周囲をも豊かにしてくれた。他者の人生にも、一筋の可能性を感じさせてくれた。

少なくとも孫バカな私は、そう信じている。だって私も、その一人だから。

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