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【エッセイ】池田暁史|修行と「自己-愛」

 本記事では、精神分析家・大正大学教授、池田暁史先生によるエッセイを特別公開いたします。
※本記事は『学術通信 No.127』(2022年夏)掲載の内容を転載したものです。

修行と「自己–愛」


 すしが好きだ。 

 私が子どもの頃でもなお宴会のメイン料理といったら鯉のうま煮(輪切りにした鯉を酒、醤油、砂糖で煮た郷土料理で、身は硬くてそれほど美味しいものではないが、甘辛く味のしみた卵や内臓には特有の滋味じみがある)が出てくるような、海から隔絶された内陸部の盆地で育った私にとって、もとより鮨は身近な食べ物ではなかった。
 そんな私が江戸前の鮨の豊饒ほうじょうさに目を見開かされたのは、時代でいえば2000年代半ば、齢でいえば30代前半のことだった。当時、引っ越したばかりだった私に、後に鮨に関するエッセイまで書くことになる鮨好きの先輩が「あの辺はいい鮨屋があるよ」といって、いくつかの鮨店を教えてくれたのだった。そのうちの1店が見事に私の嗜好に合い、それからしばらくの間、足繫くそこに通うことになった。そこの親方には随分といろいろなことを教えてもらった。 
 最近は夜まで分析セッションをもっていることが多いため、なかなかその店には行けなくなってしまったが、遅い時間に席を設けてくれる何軒かの鮨屋には変わらず世話になっている。同じ鯵でも鹿児島県は出水いずみの厚みがあって身質のしっかりとした端正な味わいのあじを好む親方もいれば、島根県は浜田で水揚げされた口の中で優しくほどけるような鯵を好む親方もいる。夏になるとアオリイカや白いかを使いだしてねっとりとしたイカの甘みを楽しませてくれる親方もいれば、サクサクとした抜群の食感を求めて、可能な限り墨烏賊で握り続けようとしてくれる親方もいる。十人十色、どの店にもその親方に特有の個性がある。それを楽しめるのが鮨屋のよいところだ。

 さて、鮨屋ではたいてい親方の他に若い子が働いている。ここでいっている「若い子」というのは、いわゆるホールスタッフのことではなく、白い調理服を着て厨房に入っている若者のことだ。実はこの「若い子」には2種類ある。アルバイトとして洗い物や簡単な調理を手伝っている若者と、弟子として鮨屋の修行に身をゆだねている若者とである。目の前の「若い子」がこのどちらに属するかを見分けるのは、対象が男の子である場合、かなり簡単だ。すなわち、頭を坊主にしていたらその子はほぼ確実に修行中の弟子だし、坊主でなかったらその子はほぼ間違いなくアルバイトなのである。 
 
 馴染みの鮨屋に行って、坊主頭の見慣れない男の子がいると「あー、親方は新しく弟子をとったんだなぁ」と思う。タイミングをみて声を掛けると、緊張に身を固くしながら、それでも嬉しそうに答えてくる。その初々しい態度には「いずれ自分も立派な親方になってみせる」という未来への夢と希望があふれているようにみえる。 

 ところが、この弟子と呼ばれる若者たちは直ぐに店を辞める。特定の店の親方がとりわけ厳しすぎるからということではなく、どこの店でも実によく辞める。1カ月後に再訪した際には既に辞めていることも稀ではない。個人的な印象に過ぎないが、おそらく1年後も同じ店で修行を続けている弟子は5人に1人もいないのではないだろうか。この「弟子が直ぐ辞める問題」には、多くの親方が頭を悩ませている(飲食店全般にいえることで鮨屋に限った話でもないのだが)。 

 この問題の解決策はある程度わかっている。それは、いっときに弟子を5人以上まとめて採用するという方法である。弟子が5人以上いると、彼らは弟子同士で目標を共有し、親方や癖の強い客の愚痴をいいながら、何とか修行を続けていけることが多い(それでもポロポロと抜け落ちていくので、常時新しい弟子をとって5人以上を維持する)。 

 とはいえ、現実に5人以上の弟子を抱えられる鮨屋はそう多くない。それだけの人が同時に存在するためには厨房スペースを広げなければならないし、そのためにはより広い店舗が必要になる。当然店賃は高くなるし、人件費だって膨大になる。席数を増やしたり、回転率を上げたり、客単価を上げたりして稼がなければ追いつかない。自分の店をそういうところにはしたくないと思う親方もいるし、したいと思ってもできない場合も多いだろう。この方法でこの問題を解決できるのは極めて特権的な地位にある鮨屋だけだ。  

 それなのでこの件に関していえば、私はお世話になっている親方たちの力にはほとんどなれない。「長く働きつづけてほしいなぁ」とこころの奥で願いつつ、頑張っていそうな弟子にたまにお小遣いをあげるくらいだ。 

 そもそも、なぜ彼らは辞めるのだろうか。弟子入りしてくるときの彼らは、いずれ親方となって手前の店をもち、抜群に旨い鮨を握っては大勢の客から称賛されている自分をイメージしているはずだ。しかし現実に待っている修行の日々は、そうした華やかなものではない。単調で単純な作業の繰り返しが多いし、一見何の役に立つのか理解しがたいものも多いだろう。イメージされる自分と、実際の自分とのあまりに大きなギャップ。ここに多くの若者は耐えられないのだろうし、やはりそこにはナルシシズムの傷つきがあるのだろうとも思う。 

 ここで重要なのは「ナルシシズム」が、必ずしも「自己–愛 self-love」や「自愛 self-regard」とは一致しないということだ。一見単純で単調な作業に思えることからでも身につくことは沢山ある。私は厨房で行われる仕事を目にする立場にないので、カウンターからみえる世界についてしか語りようがないのだけれど、たとえば茹でたての熱々のクルマエビの殻を瞬時に向いていく作業など、素人には到底できないことだ。 

 これができるようになるということは、本来、弟子にとっては己の技の進展を意味しており、「自己–愛」や「自愛」を高めてくれるもののはずである。しかし辞めていく弟子たちは、そこに誇りをもつことができない。自分が夢見た華やかな舞台に立てていないというナルシシズムの傷つきが、少しずつ育まれている「自己–愛」を打ち砕いてしまう。ここから推測できるのは、「ナルシシズム」と「自己–愛」とは同期するものではなく、むしろ対立的になりうるものだ、ということである。 

 「ナルシシズム」を削り、「自己–愛」を育てる。おそらくは、このことが修行の本態なのだろう。「自己–愛」とはイメージではなく、技や、知識、そして経験の膨大な蓄積が生み出すまっとうな自負である。他者からみると、それは誇大性や万能感ではなく、ある種の実直さや誠実さとして映る。私が優れていると感じる親方のたたずまいは、皆、実に自然だ。思うに、精神分析の訓練も行きつくところはここなのかもしれない。いま私はようやくそのことがわかりはじめている。

※本記事の特性にあわせて、一部記述を振り仮名をふり、太字にしております。

池田暁史(いけだ・あきふみ)
大正大学心理社会学部臨床心理学科教授、個人開業。精神分析家。2023年土居健郎精神分析奨励賞/日本精神分析学会奨励賞(山村賞)受賞。
著訳書は、『米国クライン派の臨床』(共訳,岩崎学術出版社)、『メンタライゼーション実践ガイド』(監訳,岩崎学術出版社)、『メンタライゼーションを学ぼう』(日本評論社)など多数。
2022年6月に翻訳を手掛けた『ナルシシズムとその不満』(ギャバード他著)が小社より刊行された。

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