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【連載】岩波文庫で読む 「感染症」第9回|「うら若い女が亡び行くのだ」 細井和喜蔵『女工哀史』|山本貴光

 かつて肺結核を患ったことがある。自分でもなぜそんなことになったのか分からないのだが(もちろんどこかで感染したからなのだが)、当時勤めていた会社で受けた健康診断で肺に白い影が映っていることが分かり、精密検査をすることになった。日頃は脳天気な私も、ことによっては死ぬのかもしれないと思ったのを覚えている。

 結果的には肺結核と診断されて、ほっと胸をなで下ろした。というのは、もちろん治療法が確立された世界に生きているからで、これが100年前ならこうはいかなかったに違いない。それは不治の病だったからだ。

治療はどのように行われるのか。現代における結核の扱いをよく知らないまま、てっきりサナトリウム生活になるのだろうかと思ったのは、昔読んだトーマス・マンの『魔の山』(上下巻、関泰祐・望月市恵訳、赤433-6, 7)を思い出したからかもしれない。いまなら宮崎駿監督・脚本のアニメ『風立ちぬ』(スタジオジブリ、2013)を思い出す人も多いだろうか。

 幸い結核菌を排出する段階には至っていなかったため、それまで通りの生活をしながら治療をすることになった。医師からは、疲れるようなことをなるべく避けてくださいと指示されて、ときおり微熱でぼうっとする以外は普通に仕事をした。

 行きがかり上、会社の同僚にも肺結核について話す。すると、少なくない人たちから「えっ、明治の文豪みたいじゃん」「ハンカチに喀血するあれ?」という反応があった。私が毎日のように会社帰りや昼休みに古本屋に寄っては本を買っているのを知る人からは、「それは古本の埃が原因じゃないのかな」という冗談も飛び出したりもする。

 そのとき面白いと思ったのは、平成の世になってもまだ「結核=文豪」というイメージが人びとのあいだにあったことだった。実際、結核を患った作家は少なくない。

 北川扶生子『結核がつくる物語――感染と読者の近代』(岩波書店、2021)によれば、新島襄、森鷗外、二葉亭四迷、夏目漱石、正岡子規、国木田独歩、樋口一葉、阪本四方太、永井荷風、長塚節、斎藤茂吉、髙村光太郎、竹久夢二、山村暮鳥、尾崎放哉、中里介山、石川啄木、高村智恵子、岸田国士、坪田譲治、岸田劉生、倉田百三、直木三十五、芥川龍之介、宮沢賢治、壺井栄、梶井基次郎、中野重治、横溝正史、堀辰雄、中原中也、宮本顕治、太宰治、大原富枝、織田作之助……といった作家たちが結核にかかっている(同書、66ページの表から一部抜粋)。

 また、これは西洋の例になるが、結核はどういうわけか、詩人や芸術家のかかる病気というイメージも流布していたようだ。スーザン・ソンタグは『隠喩としての病』(富山太佳夫訳、みすず書房、1982/現在は『隠喩としての病い/エイズとその隠喩』)で、結核と癌について西洋の人びとが抱いてきたイメージを対比している。

 ソンタグはそこで、例えば「結核にかかるのは、すぐれた性格の持ち主であった。感受性が鋭く、想像力に富む、独特の人物であった」(同書、48ページ)といった結核神話がまことしやかに語られたいくつもの例を示している。あたかも結核を病むことが、優れた芸術家の条件だと考えられていたようだ。

 日本でも似たようなことが起こっている。この点について関心のある向きは、福田眞人『結核の文化史――近代日本における病のイメージ』(名古屋大学出版会、1995)をご覧あれ。


 とはいえ、他方で結核が死に至る病であったことに変わりはない。また、病状が進めば、よいことばかりも言ってはいられない。ここでもそうした別の側面に目を向けてみよう。

 前回、志賀直哉の「流行感冒」を眺めた折りに、こんな文章があったのを覚えておいでだろうか。

三、四百人の女工を使っている町の製糸工場では四人死んだというような噂が一段落ついた話として話されていた。
(志賀直哉「流行感冒」、『小僧の神様 他十篇』緑46-2、165ページ)

 「流行感冒」の主人公は、女中を2人雇ったり、家族が流行感冒にかかった際には東京から看護婦を呼び寄せたりできる身分だった。言ってしまえば、恵まれた立場の人物だ。

 これに対して、ここで「一段落ついた話として」触れられている女工たちはどうだったか。これは製糸工場ではなく紡績工場の話だが、岩波文庫で長く読み継がれてきた細井和喜蔵『女工哀史』(青135-1)にそのことが克明に記されている。

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 この本は、自身も紡績工場で働いていた細井和喜蔵(1897-1925)が、当時の紡績工場で女工たちが置かれた苛酷な状況を記したルポルタージュだ。和喜蔵自身の経験、女工寄宿舎で生活していた妻のとしをや紡績に詳しい古老2人の談話、当時の統計などをもとに記されている。はじめ1924年に雑誌『改造』に発表され、翌年本として刊行。著者は同書の初版が出てほどなく世を去った。

 『女工哀史』で著者は、紡績の歴史から出発し、工場のしくみ、女工をどのように募集していたか、雇用契約の実際、労働条件など、紡績工場のあり方を記述したうえで、さらに女工が置かれた劣悪な状況をさまざまに描いている。この本のうち、ここでは感染症に関わる書きぶりに注目してみる。


 時期や地域なども多様な事例が取り上げられているなかで、例えば日本毛織会社のパンフレットから抜粋された文章にこんなくだりがある。

当社の工場は水質と気候の最も良い健康地をらんでありかつまた沢山の医学士が常に皆様の健康について全力を尽しておりますから病気になることは先々まずまずありませぬが万一病気になった方は会社の病院へ会社の費用で入院させ親切に養生ようじょう致させます
(同書、85ページ)

 細井はこの説明に「?」を付している。「どうやらその実行が怪しい」という意味だ。

 ただ他方で、工場に附属の医局について記した箇所では、肺病患者の保養所を設けている鐘紡の例が紹介されており、「この点、鐘紡だけは流石さすがにちょっとほめても差支ない」とも述べている(同書、239ページ)。

 とはいえ、医療施設があるから病気にかからないわけではない。むしろ工場は感染症の温床にもなっていた。『女工哀史』の第17章「生理ならびに病理的諸現象」では、実に多くの女工たちが結核に苦しんだ様子が記されている。

 細井はその章の冒頭で、衛生学者、石原修(1885-1947)の『衛生学上ヨリ見タル女工の現況』(国家医学会、1914)に触れて「日本の女工と結核病の研究を発表されてその戦慄すべき惨状に世人を驚愕せしめた」と紹介している。

 石原修の本は、1903年に農商務省商工局が刊行した『職工事情』(上中下巻、犬丸義一校訂、青N100-1, 2, 3)などとともに、工場労働の苛酷な状況を明らかにして、工場法の施行(1916年)を後押ししたものだった。石原たちの調査によれば、明治39年から41年における女工の死因のうち半分は結核性疾患だったという(同書、78ページ)。

 ついでながら明治政府の内閣統計局が発行していた『日本帝国死因統計』を見てみよう。同じ時期の明治39年から41年の死因には、腸チフスや流行性感冒、コレラ、赤痢などと並んで肺結核の項目がある。他の感染症による死者数が数十から数千という桁であるのに対して、肺結核は75409人(明治39)75544人(明治40)76589人(明治41)と桁が一つ多い。日本全体においても感染が広がっており、人びとの生命を脅かしていた様子が窺える。

 『女工哀史』に戻れば、細井は『内閣統計年報』という資料を引きながら、職業別に見た肺結核の死亡率が、彫刻・印刷・写真業で1000人あたり405人を筆頭として、次いで綿糸・織物・編物の製造業が310人という高い割合であることを示している。彫刻・印刷・写真業の従事者が比較的少ないのに対して、女工は母数も多かった。ただしここで細井が参照している数字が、どの年のものかは分からない。

 ここで注意が必要なのは、これが工場の寄宿舎で死亡した人数という点である。実際には工場で結核をはじめとする病を得て故郷へ帰った者も少なくない。細井はその様子をこんなふうに記している。

女工が国許へ出す手紙は、その内容に工場の不利なことがしたためてはないか一々点検してもし少しでも虐待に近い事実を訴えるようなものでもあれば、直ちにこれを没収するほど警戒を密にしたが、それでもなお工場の内情がもれ知れ出した。賢い女は高い堀を乗り越えて逃亡を企てた。そうして生命カラガラ着のみ着のままで帰国して工場の圧制を泣いて訴えるのだった。またなかには病気や傷を負うて会社からつき戻される女もあった。工場へ行ったがため、やった故に、村にはかつてなかった怖るべき病い――肺結核を持って村娘は戻った。娘はどうしたのか知らんと案じているところへ、さながら幽霊のように蒼白あおじろくかつおとろえてヒョッコリ立ち帰って来る。
(同書、69-70ページ)

 特定の事例というよりは、細井が見聞きしたケースをもとに典型として描いたものだと思われる。これを裏付けるものとして『職工事情』を見ておこう。同書は、当時の農商務省が各種工業部門の労働実態を調査してまとめたもので、次のように報告している。

職工の死亡につき紡績連合会の報告によるときは、その死亡数は統計上少なきが如しといえども、これ一考を値するの事なり。けだし職工が不治の病にかかるか、もしくは重患に陥り危殆きたいひんするに及べば、旅費を与え付添人を付して、これを故郷に送還するか、あるいは故郷の父兄を呼び寄せて患者の引き渡しをなすは工場一般の風習なりとす。さればかくの如き患者にして途中あるいは故郷にて死亡することもあるも、工場にて死亡せざるが故に、これを工場死亡統計に加えざるなり、これ工場にて調製したる統計において死亡数の少なき所以なり。
(同書上巻、159ページ)

 工場を辞めた後で職工がどうなったかは、工場の与り知らぬこととも言える。だが、ここにも記されているように、「不治の病に罹るか、もしくは重患に陥り危殆に瀕」したことを工場側は認識した上で帰郷させている。これを考慮すれば、その元労働者たちを工場死亡統計に加えないまでも、それに準ずるものとして数えることもできただろう。

 逃げ出したのか解雇されたのかという理由はともかく、罹患後に帰郷して死んだ者を含めれば、女工の死亡率はさらに高くなる。細井は先に触れた石原修の算定を借りながら推定している。それによれば、女工以外の女性(12歳から35歳)では人口1000人につき死亡者数が約7人であるのに対して、女工はその3倍以上にのぼる。これを染織工業に従事する女性約72万人に換算すれば、毎年1万6500人が女工として死亡している計算である。

 もし彼女たちが工場へ行かなければ、死亡者数はその1/3で約5000人なのだから、工場勤めによる犠牲者はおよそ1万人という次第。「うら若い女が亡び行くのだ。何という驚くべき事実だろう」(『女工哀史』、393ページ)とは細井の慨歎である。


 なぜそんなことになったのか。当時の分析では、女工たちの年齢、工場の温湿度、夜勤、衣食住環境によると見られていた。

 この点について再び『職工事情』を参照しておこう。綿糸紡績工場では昼夜交替制を敷いており、1日の労働時間11時間から11時間半(休憩時間を除く)。夜勤となれば徹夜仕事である。

加うるに工場には屑綿塵埃くずわたじんあいの飛散すること巳甚はなはだしきも、操業上通風を忌むが故に、窓戸は常にこれを密閉して他に換気の装置を設けざるを以て空気の不潔なること甚だしく、その他温度湿度の関係により身体を害すること甚だしく、殊に徹夜業は一層の害を加え感冒、呼吸器病を惹起じゃっきし、その極ついに肺病、肋膜炎ろくまくえん等に変ずるもの少なからず。
(『職工事情』上巻、140ページ)

 このたびの新型コロナウイルスのパンデミックを経験するなかで、換気の重要性が改めて広く知られるようになった。風を通し、空気を入れ換えることで感染の確率を減らせるわけである。そのような観点から見ると、密閉された工場の作業場は感染症のリスクについて考えただけでも、よい環境でなかったことが窺える。


 なにやら数字を多く並べることになった。志賀直哉が「流行感冒」に書いた顔の見える個人に対して、『女工哀史』や『職工事情』で女工たちは集合として、統計的なデータとして捉えられていたためだった。それは近代国家をつくろうとした明治政府以来、国家のさまざまな状況を統計によって捉えようとする努力を反映した結果でもあった。いまなら社会学や人類学などで行われている聞き書きやフィールドワーク調査によって、個人としての女工の生き方や置かれた状況をさらに明らかにできたのかもしれない。

 細井和喜蔵は、いまとはまるで違う情報や通信の環境のなかで、あるいは知識環境のなかで『女工哀史』を書いた。後の目から見ると検証を要する記述や限界もあるだろう。例えば、サンドラ・シャールによる『『女工哀史』を再考する――失われた女性の声を求めて』(京都大学学術出版会、2020)は、女工たちがどのような意識で働いていたかという点に新たな光を当てる試みである。

 ただ、それでも『女工哀史』を読むことにはいまもなお意味がある。当時と比べて改善されてきた面もある。だが残念なことに、同書が最初に刊行されて100年近くが経とうとする現在も、劣悪な状況で労働を強いられる人たちがいる。例えば「ブラック企業」や「搾取工場(sweat factory)」といった言葉でネットを調べれば、具体的な企業名やニュースが山のように目に入るだろう。『女工哀史』は、良きにつけ悪しきにつけこの100年の労働の変化を知る上で、あるいは工場という場所でなにが起きうるのかを検討するケーススタディのひとつとして、少なからぬ手がかりを与えてくれるだろう。

 例えばこの本に書かれた材料をもとに、当時の紡績工場のシミュレーションモデルをコンピュータ上でつくって動かしてみる。女工たちの健康状態や感染症、賃金をはじめとする労働条件を含む多様な要素がある。そこで、利潤の拡大を目的として工場全体を最適化しようと考える経営者の立場に立ったとき、どのような労働条件を設定するのが「最適解」に見えるか。あるいは同じ条件で、女工の立場に立ったなら、生き延びるためにどのようにふるまうのがよいか。そうしたシミュレーションを可能にする材料がここには揃っている。

 こうしたシミュレーションを動かして触れるとき、人はなにを体験するか。工場を舞台として、当時の生活や社会(経済・政治・法律・技術など)の様子を動きのなかで疑似的にではあれ実感できる。これは歴史の動態模型のような側面。

 加えて経営の観点では、労働者が人間であることが簡単に忘れ去られる様子を体験できるに違いない。工場経営という文脈で生産に関わる数字を追い続けると、そこで働く人間は、ある働きを担う要素となり、一定の時間で一定の生産を行う機能のようなものに見えてくる。さらには利潤をより大きくするという目標達成に熱中し始めると、自分がそのように工場を見ていることさえ意識しないかもしれない。

 上記のシミュレーションのよい点は、その同じ工場環境で働く女工の立場を追体験できるところだ。例えば、はじめに経営者として工場を一定期間運営する。次に時計の針を巻き戻して、その運営の下で働く女工の立場をとってみる。そうするとはじめて、自分が先に行った経営がいかに酷いか(あるいは適切か)もようやく実感されるというわけである。

 労働時間や賃金、医療施設の状態など、各種の要素を少しずつ変えながらこれを繰り返し試せば、なにが女工や働く人たちの健康に影響を与えるかということも見えてくる。もちろんこれは、限られた要素で組み立てたシミュレーションモデルであることを忘れてはならない。場合によってはモデルの修正も必要になるだろう。

 かつて企業を経営するシミュレーションゲームの開発に携わり、各種のそうしたゲームをプレイした経験もあって、『女工哀史』からこのようなことを夢想したのだった。

*関連する本につぎのものがある。
細井和喜蔵『奴隷――小説・女工哀史1』(岩波文庫青135-2)
細井和喜蔵『工場――小説・女工哀史2』(岩波文庫青135-3)
 本文でも述べたように、細井和喜蔵は『女工哀史』が本として刊行された1925年に28歳の若さで没した。『奴隷』と『工場』は没後に刊行された自伝的小説である。

高井としを『わたしの「女工哀史」』(岩波文庫青N116-1)
 高井としを(1902-1983)の自伝。『女工哀史』では、夫である細井和喜蔵に材料を提供した人物として言及される高井自身の生涯を記しており、本書自体が時代の貴重な証言となっている。
山本貴光(やまもと・たかみつ)
文筆家・ゲーム作家。
コーエーでのゲーム開発を経て、文筆・翻訳、専門学校・大学での教育に携わる。立命館大学大学院講師を経て、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。
著書に『記憶のデザイン』(筑摩書房)、『マルジナリアでつかまえて』『投壜通信』(本の雑誌社)、『世界が変わるプログラム入門』(ちくまプリマー新書)、『文学問題(F+f)+』(幻戯書房)、『「百学連環」を読む』(三省堂)ほか。共著に『人文的、あまりに人文的』(吉川浩満と共著、本の雑誌社)、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』(吉川との共著、筑摩書房)、『高校生のためのゲームで考える人工知能』(三宅陽一郎との共著、ちくまプリマー新書)、『脳がわかれば心がわかるか』(吉川との共著、太田出版)ほか。
twitter @yakumoizuru

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