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移住 #1|ドミニカ共和国への道が開いた話


このnoteは、文化人類学や地域研究を学ぶ当時大学3年(21歳)だった私が、夢だった海外でのフィールドワークを行うため、野球が盛んなドミニカ共和国をフィールド地に選び、紆余曲折を経て移住した記憶を綴ったものです。


 今から2年前の2018年1月、大学の一室でKさんと話し終えた私の気持ちは数時間前とは比べ物にならないくらい晴れていて、これから何が起こるのか、いま自分がどういう状況にいるのかを、咀嚼しきれないままでいた。でもこの部屋に入ってくる前と比べると、心にかかっていたはずのモヤモヤはほとんど消え、確実に前向きな気持ちになっていた。Kさんと私はその日が初対面だった。彼は、突然大学にメールを送ってきた他大学のいち女子学生に自分の研究室へ訪問することを許し、初めて会ったその日に、十数年来の旧友まで紹介してくれた。

数週間前、私は渡・ドミニカに向けて最有力の手段だと思っていた学内のインターンシップに落ち、心身ともにどん底で、この先どうすればいいかわからなくなっていた。あのとき、手探りながらも参考文献の著者であるKさんの大学へメールを送り、研究室を訪ねたことは、今の私にとって大きすぎる分岐点だった。


なぜドミニカ共和国に移住?

 幼い頃から海外(主に途上国と言われる地域)に興味関心があった私は、大学2年生の後期あたりから「海外の全く知らない場所で、フィールドワークがしたい―」という思いが強くなっていた。それは語学留学でもなく、リゾート地を豪遊するバカンスでもなく、リュックひとつで観光地を巡るバックパッカー旅でもない。私が夢見ていたフィールドワークは、その土地の人たちと同じ言葉を話し、同じ環境の中で暮らし、その家・地域の住人となる。そしてそこに住む人たちの考え方や生活様式を現地目線で知りたい、それが私の関心だった。

そして、その場所選びの基準として持ち出したのは、幼い頃から好きな野球だった。ドミニカ共和国は米国のメジャーリーグ(MLB)にいる外国人選手の出身国として圧倒的1位に君臨する野球大国である。一方で、人びとの生活は経済格差が明確で、2010年時点で国民の42.2%が「貧困ライン(月額400ドル以下で生活)」以下に該当すると発表されている。ドミニカには日本人が少なく、故に情報もまだ少ない。ただ、日本の10分の1にも満たない1000万人ほどの人口の中から、日本よりも圧倒的多くのメジャーリーガーを輩出し、日本プロ野球でも多くの選手がプレーしているドミニカ共和国。そこで、野球にまつわる調査をしたいと思った。


Kさんとの出会うきっかけ

 インターンに落ちた後、ひどく落ち込んでいた私に当時とっていたゼミの古澤先生が「何か現地に関わりたいと思うなら、著者に直接連絡してみるのもありですよ」と言葉をかけてくれた。そんな発想はそれまで考えたこともなかったが、やれることはやってみようと、言われた通り実行してみることにした。インターン応募前に読んでいたドミニカに関するいくつかの本の中から、まさに自分が理想とするフィールドワークを実践していると感じた学術書の著者・Kさんに宛てて、その日のうちにメールを書いた(実際には個人のアドレスがわからなかったのでKさんが所属する大学の代表アドレスにメールを送った)。※インターン応募に関するお話はまた別の機会に書きたいです


他大学の学生からのこんなメールに、しかも学校の事務局を通したメールに返信が来ることなんてあるのだろうか。2月中旬、私の思いに反し、Kさんからの返信はやってきた。「メールでも、会って話すのでも結構ですので、また、連絡をしてください。」そう書かれたメールを読み終え、私は急いで隣にある目黒先生(ゼミの担当教員)の研究室に飛び込んだのを覚えている。そこからやりとりをして、3月6日にKさんの大学の研究室へ伺うことが決まった。

Kさんの研究室へ

 研究室へ向かう道中、私は「とにかく、初めてお会いするんやから自分の思いを伝えて、ドミニカ現地のことについてKさんに質問できることはできるだけ聞いておこう」という思いで頭がいっぱいだった。

研究室に着くと、Kさんは緊張する私を想像以上にフランクに受け入れてくれた。そして話をひと通り聞き終えたKさんは、私のやりたいことや考え方、性格などを既に汲み取ってくれていた(気がする)。そして、「あなたがしたいこと実現するなら、自由に、自分の好きなように動けたほうがいい。つまり、インターンとかじゃなくて、自分個人で行ったほうがいい」という意見をくれた。さらに、言葉も十分に通じず、何も知らないでドミニカという土地に一人で乗り込むのは危険も伴う。到着してしばらくは、彼らにお世話になってもいいんじゃないかと、ドミニカに住む彼の知人を2人も紹介してくれた。


地に足着かない帰路

 「なんか、すごいことになってもうた」と思いながら電車に揺られ、家に帰った。とりあえず、Kさんが紹介してくれたダンとトニーさんにメールをした。Kさんから紹介していただいた旨や、私が今大学で何を勉強しているのか、幼い頃から野球が好きなこと、そしてなぜ、私がドミニカ共和国に行きたいのか…。恐らくとても拙い文章だったと思う。親戚でも先生でもない大人の(しかも会ったこともない)人にメールを送るのは初めてだったから、大学3年を終えようというときに私は、メールのマナーもよく分かっていなかった。とにかく緊張しながらメール文を考えたのを覚えている。

 同日中、Kさんにはお礼のメールを送ったが、その日が初対面だったとは思えないくらいアツい返信をしてくださったことを今でも覚えている。「自分がどんな経験をしたいのかがポイント」であり、「就職のため、単位のため、箔をつけるため・・・ではなく、自分が知りたいことを知るために、未知の世界に飛び出していくこと。それが自分に正直に生きることだと思います」―。返ってきたメールを読みながら心の中で大きく頷いた。小中学校の担任が言いそうな、私自身と全力で向き合ってくれているからこそ出てくるような純粋な語りかけが、強く胸に刺さった。

 当たり前のように聞こえるかもしれないが、当時の大学生活の中ではこうした考え方を周囲の人間から感じることが少なかった。留学やインターンに関しても、「とりあえずこのプログラムに参加できれば(海外に行ければ)いい」という人がいると少なからず感じていたし、「後々就職に有利になる」ことが目的になっていて、実際現地に着いてから何をしたいのか具体的な目的意識を持っている人は多くなかったと思う。人それぞれの価値観なのでそうしたい人たちを否定したいわけではない。というよりも、そうした将来に役立つことを前提に人生の選択肢を選ぶ人を見るうちに、私自身が「私が今しようとしていることは何の役に立つのだろう」と考え込むようになってしまっていた「自分が知りたいことを知るため」、ドミニカに行くにはその理由で十分だということを、Kさんは初対面にして教えてくれたのだ。

 ドミニカに行くことが決まってからは、ウェブサイトでチケットを探す。東京からドミニカの首都サント・ドミンゴまではアメリカ経由(乗継2回)とメキシコ経由(乗継1回)があり、トランジット含め30時間以上のフライトと、16~19万円ほどの航空費用を覚悟しなくてはいけなかった。貯金が少なかった私はなるべく安い日程を見つけようと必死に発着日や航空会社を変更し、検索し続けた。結果、アメリカ経由で5月発-12月帰国、往復12万円台(破格の安さだが、なぜこの日程だけこんなにも安かったのかは分からない)のチケットを見つけ購入した。本当は2~3月ごろまでいて滞在期間を最大限伸ばしたかったが、3月から始まる就活に向けた準備ができるよう、一応12月帰国予定(帰国日変更可能)とした。


出発前の遺言書

 5月の渡航直前、家族宛に手紙を書いた。両親だけではなく、両方の祖父母、母の姉夫婦、父の妹夫婦と、全員に書いた。これは私にとって俗にいう遺言書だった。ドミニカの治安面を親から尋ねられても「大丈夫大丈夫」とあしらってはいたが、知り合いがいない場所に1人で行くこと、スリ等犯罪の多さ、また申請すれば銃の所持が認められる社会であることなど、事前の情報収集から危険な国で身の危険があることも覚悟していた。もしそうなれば、両親はこの渡航を引き留めなかったことを強く後悔し、自分たち自身を責めるかもしれない。そう思ったため、両親への手紙には「昔から私のやりたいことを引き留めず、常に挑戦させてくれたことに感謝している」「なにがあったとしても、この選択は私がしたことで、渡航できることが自体うれしい」という旨を書き留めた。祖父母に対しては日々の感謝(普段素直に感謝を伝えられる性格ではない)や大好きな手料理、旅行に行った思い出など最後になるかもしれないと思いながら文を連ねた。この頃は、異国の地へ飛び込む高揚感と共に、そこはかとない不安が募っていたのを覚えている。

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