見出し画像

いませ母とじ 面変わりせず


本日は母の日ですね。

母の徳(情愛)がいかに偉大であるか。

そのことを、万葉集の歌に加えて、

戦前〜戦後を生きた二人の偉大な学者、

そして日本が生んだ稀代の芸術家の言葉から探って参ります。m(_ _)m


本日の和歌

真木柱 ほめて造れる 殿のごと いませ母刀自 面変わりせず  防人歌

『万葉集』巻二十

【現代語訳】

真木の柱を祝福して造った御殿のように、いらしてください、母君よ。面立ちの変わることもなく。

※真木=ヒノキ、スギなどりっぱな木。

※真木柱…室寿ぎ(むろほぎ)の呪言をこめて中心の柱を立てた。

※刀自(とじ)=婦人の尊称。戸主の略ともいう。

【解釈】

一読して忘れる事の出来ないのは、母を思ふ至情によるのである。
『大乗本生心地觀経』には、「善男子よ、諸々の世間に於いて、何者か最も富み、何者か最も貧しき、悲母、堂に在る、之を名づけて富めりとなす、悲母の在らざる、之を名づけて貧しとなす」といひ、また「悲母ゐます時を、名づけて月明となし、悲母亡き時を、名づけて闇夜となす」と説いてゐる。
自分の一生をかへりみても、悲痛哀傷の極、断腸といふよりは、むしろ脳髄が分裂するかとさへ思はれたのは、母を失った時であつた。我々は母に、社会的な地位、栄誉、権利又は富をもとめない。人の子が母に求めるのは、母を尊び、母に感謝するのは、むしろそれらをふりすてて、一途に子の為に盡してくれる其の純粋の愛情に外ならぬ。
母の深き愛の前に、人の子はひざまづく。母を忘れ、母と離れて、人は罪の沙漠をさまよふ。
今日我々は朝夕のニュースに、恐るべき罪悪を聞かぬ日とては無い。
ああ今の世に、一刻も早く取り戻さねばならないのは、母の愛である。婦人が母の徳に帰り、子が母の愛に帰る以外に、人心の崩壊を救ふ妙薬はあるまい。

平泉澄『山彦』(昭和三十五年十二月十七日「母」)より

取り戻すべきは「母の徳」

《より抜粋》

女は無我であり無欲である程純粋である、崇高である。さればこそ世に母の徳ほど尊く懐しいものはあるまい。母は子を生み、子を育て、子を教へ、苦みを厭はず、與へて報を思はず、子と共に憂へ、子と共に喜び、我有るを知らぬ。
(中略)
夫や子が世間に出て浮世の荒波と戦つてゐる時、之に不断の慰藉(いしゃ)と奮励を與(あた)へる者は母である。夫や子が瞋恚(しんい)の炎に燃え、人生の不如意を嘆ずる時、静かな諦観と久遠(くおん)の平和とに導く者も母である。母は人間に於ける造物主の権化ではないか。誠に母の徳こそは「玄の又玄」なるものであつて、婦人は根本に於て必ず善き妻たり母たる人でなければならぬ。

安岡正篤著『東洋倫理概論』第一編「志尚」第四章「恋愛」より


ここでもはや付け足す言葉はありますまい。(^ ^)


岡本太郎「母の手紙」


「母はわがうちに生きつつあれば哀しからず。父は僕にわずらわされず仕事に生きよ」

これは岡本太郎が留学先のパリにて、父から電報にて母の死を知らされた後の電報です。

『岡本太郎著作集 7 母の手紙』の中に、父親との長いやりとりが残されています。

本日はそのごくごく一部ですが、抜粋してお届けいたします。m(_ _)m

お母さんの居ない後の空虚は、これからより強く生きることによってうめて行くつもりです。それは勿論お父さんもそうしなければなりません。
最後に電報にお父さんが僕のために生きるとありましたが、お互いのために生きることは勿論ですが、同時にそれぞれの責任のために強く生きることが僕にはのぞましく思われます。

(中略)

悲惨ではありましたけれど、お母さんの死は美しかったと思います。燃えつくした焔の美しさです。
お母さんのそばに近づくものは、お母さんの情熱に焼きつくされずには居なかった。そのような、お母さんは浄火を持っていた人です。
今、全てを焼きつくして、自ら一つの聖火となって消えて行きました。
お母さんは本当にただ事ではない美しい人生を生きおおせました。


お母さんはある部分、繊弱な体質を持ち、激しい精神の苦悩は生きる上に当り前のことですが、肉体的な苦悩とも戦わねばなりませんでした。
今、お母さんはその不当な笞(しもと)からはなれて多摩墓地に休んでいるのです。


僕達は、それを祝福しなければなりません。

人は「死んだ」と云うでしょうが、僕達にはお母さんが「死んだ」などとは全く思いもよらないのです。

お母さんの悲壮な過去のいのちを憶う時、泪がとめども無く出て来ますが、これは母を失った悲しみではありません。

お母さんのいのちは、僕のうちに、ますます生気を漲らして生きつづけています。これはお父さんも同様に感じられるでしょう。だから、僕は悲しんではいません。ただお母さんの美しいいのちを憶って感極まるだけです。八年も永く別れていて夢を見ればたいていお母さんの夢でした。

こんなに永く、そして遠く、わかれていて、更に僕を淋しがらせなかったお母さんのいのち、どのくらい僕の裡(うち)に根強く生きていたかわかりません。そしてこれからも尚おより強く生きつづけて行くのです。

僕のいのちに絶対な存在であったお母さんは、現象的な肉体の存在を解消して、今はより純粋に精神的に僕のいのちの中に喰入っているのです。

お母さんの生前願っていたよう、僕の裡に生きつつあるお母さんの姿は、常に美しい若い母性のそれです。

『岡本太郎著作集 7 母の手紙』


画像1
岡本太郎作「誇り」

岡本太郎が母である岡本かの子を偲んで製作したものです。


「母なる地球」の「母の徳」は、「アイウエオ」の五母音である。


最後に、半ば強引かと思われかねない話ではありますが、

d.M(デジタルメディテーション)アプリの音源である

「SHIZIMA」「TAKION」の音源が再現しているのは、

「母音優勢言語」である日本語の周波数による「シューマン波」の響き。

「母なる地球」が持つ固有の周波数は、

「アイウエオ」の五母音と同定できます。


もうお分かりでしょうか。

今の世の中が取り戻すべきは「アイウエオ」の五母音だと云うことです。


日本古来の瞑想法である鎮魂作法(d.M=デジタルメディテーション)により、

「母の徳」である「アイウエオ」の五母音の響きと一体化します。

それによって得られるのは、まるで心身を委ねるような究極の癒しです。


母音優勢言語を日頃から扱う日本人(日本語人)の使命も、

ここにきてはもう明らかですね!!!(^O^)


世界に「母の徳」なる「アイウエオ」五母音の響きを普く行き渡らせて、

「鎮魂平和」を実現することです。


世界の平和は個人の鎮魂から始まります。


とほかみえみため

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?