ひなぎく

さようなら、高畑監督

高畑勲監督が亡くなった。長年、盟友である宮崎駿監督とともに、スタジオジブリのツートップとして素敵な作品を届けてくれたことに感謝したい。

正直に言うと、高畑の作品に関しては、出来にムラがあるなあ、と常々思っていた。『おもひでぽろぽろ』は、都会でOLとして働く、タエ子という20代の女性が、山形県にある親戚の農家に滞在する、というお話。農家の暮らしに強く惹かれたタエ子は、葛藤を抱えつつも農業に従事する人々の温かさにふれ、東京を離れる決心をする、というストーリーだ。この映画に関しては、農家、または田舎の暮らしがほぼ無批判に称賛されていて、「少しキレイゴトを言っているなあ」という印象を受けた。

また、『かぐや姫の物語』は、竹取物語を高畑流にアレンジした作品で、日本画を意識した映像は素晴らしい。ただ、「貴族や金持ち、都に住む人間は心が醜い。貧乏な人や田舎に住む人は心が美しい」という二元論に徹頭徹尾貫かれていて、高畑の民衆史観的スローガンが全面に出てしまい、物語としての柔軟性を欠いている。この作品を劇場で観ているとき、「作家のひとりよがり」という言葉が頭に浮かんだ。

高畑は終生理想主義的なスローガンを持ち続け、それが物語を殺してしまうほどに突出することがあった『火垂るの墓』は、(高畑の解釈では)権力によって引き起こされた戦争という厄災を、これでもかというほど残酷に描写した映画だが、作家のスローガンによって物語が殺される一歩手前でかろうじて踏みとどまった作品だと思う。その一線を踏み越えてしまうと、『おもひでぽろぽろ』や『かぐや姫の物語』のように、作家の思想をむりやり押しつけられているように感じる映画になってしまう。

しかしながら、である。その高畑の権力嫌い、平凡な暮らしを称賛する気持ちが、良いほうに出ることもあった。『平成狸合戦ぽんぽこ』『ホーホケキョ となりの山田くん』。この二作には、高畑の理想主義がほどよくほぐれたときに顔を出す、庶民的で下世話な笑いがある。

『ぽんぽこ』は、人間の都市開発によって森での生活を脅かされた狸たちが、さまざまな方法を用いて抵抗運動を展開するという映画。おそらくは連合赤軍をはじめとする左翼団体の活動のパロディである。狸たちは怪しげな妖術を使うことができる。また、全国各地の狸たちが応援に駆けつけるのだが、いままで牧歌的な暮らしを送ってきた狸たちは組織的行動が得意でなく、何をやってもハチャメチャになってしまう。

『山田くん』については実験的な映像が美しい。原作のいしいひさいちのラフな線を忠実に再現し、水彩絵具でふわっと色をのせたような画面。そのなかで「家族あるある」的な日常の笑いがテンポよく起こっていく。そして時折、家族であることの幸せが語られる。何時間でも観ていたくなるような映画だった。

高畑には、庶民的ユーモアを描く資質があった。このあたり、庶民を描かせても上品さが隠せない宮崎駿との対比が興味深い。肩の力が適度に抜けたときの高畑は、さすがというべき面白い作品を撮った。そのユーモアがいかんなく発揮されたのが、チーフディレクターを務めたTVアニメ『じゃりン子チエ』であったと思う。私は大阪出身だが、関西の方にとっては、まさに空気のように接してきた、なじみ深い作品だろう。

コテコテの大阪の下町、西萩(西成がモデル)で繰り広げられるドタバタコメディ。堅気の人間でもなければヤクザでもない、むしろヤクザより強い自由奔放すぎるゴロツキ、テツを父に持つ小学生、チエが、お好み焼きソースのように味のある人々や、アクの強いネコたちに囲まれて、たくましく生きていく姿が描かれる。

余談だが、私の祖父は戦争で片腕を無くした。そのこともあって、まっとうな仕事につかずにゴロツキ生活を送っていた。私には優しかったが、本来は気が荒く、だんじりを愛していた。祖母がいうには、「カネを持たせたら博打と酒ですっからかんになるまで家に帰ってこなかった」そうで、だから私は放蕩無頼なテツに今は亡き祖父の姿を重ねてしまう(テツは下戸なのだが)。

このアニメには、上述の『おもひでぽろぽろ』のキレイゴトや、『かぐや姫の物語』の作家のひとりよがりは無い。アホで喧嘩っ早くて思慮が足りなくて酒が好きで、人情にあふれる人々たちの暮らしを、おもしろおかしく、いきいきと描く。高畑のありあまる情念が、良いほうに転んだ名作だ。

write by 鰯崎 友

『じゃりン子チエ』チーフディレクター:高畑 勲 1981~83

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