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アントニオ・ネグリの思い出

はじめに
 2023年12月16日にイタリアの政治哲学者アントニオ・ネグリ(1933~2023)がパリにおいてその波乱に富んだ生涯に幕を閉じた。享年90。晩年まで精力的に活動を続けたネグリは、ジル・ドゥルーズを投身自殺へと追いやった肺疾患に苦しみ、鼻にチューブを挿管しながら、息苦しそうにインタビューに応じており、容態を心配していた矢先の訃報であった。12月6日にはやはりネグリのように政治的理由から検閲や投獄、そして、入国拒否を経験したイタリアのアナキスト理論家アルフレード・ボナーノ(1937~2023)も86歳で死去しており、戦後イタリアの「政治の季節」を象徴する左派知識人が相次いでこの世を去ったことになる。ネグリは2歳の頃にイタリア共産党の創立メンバーであった父親がファシストに惨殺され、コミュニストであった祖父や義兄から武勇伝を聴いて育っているため、コミュニストを自認している。故郷のパドヴァ大学などで国家論を講じながら、「アウトノミア(労働者自治)」運動の理論的指導者として活躍するも、運動の鎮静化を狙った政府によって、アルド・モーロ元首相暗殺事件を引き起こした極左組織「赤い旅団(BR)」の「最高幹部」に祭り上げられ、「国家転覆罪」の嫌疑で逮捕されてしまう。

ネグリのアダプテーション
 『ネグリ生政治的自伝―帰還』(作品社)の著者略歴には、「ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』は70年代イタリアの政治状況を中世の教会に仮託して描いたものとされ、ネグリがモデルとされる人物も登場する」とあり、本作の訳者である河島英昭氏も「エーコは何度となく、『薔薇の名前』を書いた直接の動機は、モーロ事件にあった、と述べている」ため、「使徒団の異端の物語を読み耽る者は、誰しも、キリスト教民主党総裁アルド・モーロとの交換条件に提示された、レナート・クルチョ(筆者注:BRの指導者)の名前を思い出したであろう」と解説している。
 盲目の老修道士ホルヘのモデルがアルゼンチン出身の作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスであることは誰の目にも明らかであるのに対し、ネグリをモデルとした登場人物が具体的に誰なのかは判然としない。意外にもネグリは宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』を絶賛しているが、私の見るところでは、日本の漫画にも微かな影響を与えているようである。というのも、去る1月6日に今年アニメが放映予定の漫画『チ。—地球の運動について—』の作者である魚豊氏と『地図と拳』で知られる直木賞作家の小川哲氏の対談「人は陰謀論に抗えるのか」を聴講すべくゲンロンカフェに赴いた際にふと気づいたが、『薔薇の名前』の影響が見られる本作には、いわゆる「凡庸な悪」のアドルフ・アイヒマンがモデルとされる異端審問官ノヴァクによって68回(「68」という数字は学生運動が盛んだった1968年を想起させる)も爪を剝がされた異端者の名前に「ネグリ」が採用されている。おそらくは投獄された不屈の危険思想家のイメージが投影されているものと推察されるが、ネグリは獄中でドゥルーズも序文を寄せた独創的なスピノザ論である『野生のアノマリー』を執筆し、83年には国会議員に立候補して当選するも、2ヶ月で議員特権が剥奪されたのを機に故国を脱出、ドゥルーズやガタリ(当時はガタリの親戚という設定だった)に匿われ、パリでの亡命生活をスタートしている(同時期にパリ第8大学でドゥルーズの指導を受けた宇野邦一氏には是非ともネグリの思い出について書いていただきたい)。97年には自発的に帰国し、再収監されたが(2003年に釈放)、2000年には盟友である政治哲学者のマイケル・ハート(デューク大学教授)との共著『〈帝国〉』が刊行され、「21世紀の『共産党宣言』」とも評されるほどの大ベストセラーとなり、続編である『マルチチュード』、『コモンウェルス』の三部作によって世界的注目を集め、左派知識人としての不動の地位を確立している。
 
 晩年まで旺盛な執筆活動を行っていたネグリの作品はあまりにも膨大で、英語やフランス語で発表された主要著作は世界各地で翻訳されているが、イタリア語で書かれた著作の多くは未邦訳で、英訳はおろか仏訳すら少ないため、その全容については専門家の手に委ねたい。以上がネグリの略歴であるが、レーニンの『帝国主義論』(1917)より16年も早く『廿世紀之怪物帝国主義』(1901)を発表した幸徳秋水の刑死が冤罪であったように、ネグリの逮捕も冤罪だったことが後に判明しており、帝国主義を鋭く批判し、フレームアップ事件に連座して投獄され、程度の差こそあれ、政治犯という理由で日本政府から弾圧されるなど、幸徳秋水とアントニオ・ネグリにはいくつかの共通点がある。

ネグリの来日
 ネグリは当初、2008年3月に財団法人国際文化会館の招聘で、日本各地で講演を行う予定だったが、当時は洞爺湖サミットを数ヶ月後に控え、入国管理が強化された時期で、フランス現代思想研究の西山雄二氏によれば、「ビザ不要という確認を外務省やパリの日本大使館と何度も取ってきたにもかかわらず、フランス出国2日前の17日にビザ取得が必要だと突然言われ(中略)、入国にあたって、ネグリが政治犯であったことを証明する公式書類の提出を求められた」ことにより、来日中止を余儀なくされている。意外なことに「ネグリはアメリカにも足を踏み入れていない。アメリカの場合、政治犯としての証明書類の提出が「最初から」求められ、彼はその収集を困難だと判断し断念した」そうだが、ネグリの講演会に登壇予定だった東京大学の姜尚中教授(当時)や神戸大学の市田良彦教授(当時)を始めとする多数の研究者達が「来日直前にビザ申請などを要求したのは事実上の入国拒否であり、思想・良心の自由の侵害だ」として抗議声明を出す事態にまで発展している(詳細は東京大学の「共生のための国際哲学研究センター(UTCP)」のブログに掲載された「【緊急報告】アントニオ・ネグリ氏来日中止の経緯説明会」を参照されたい)。その後もネグリの体調悪化や東日本大震災、福島の原発事故の影響などの紆余曲折を経て、実に6年越しとなる2013年4月にミシェル・フーコー研究のジュディット・ルヴェル夫人(パリ大学ナンテール校教授)と共に最初で最後の来日を果たしている(ちなみに夫妻は33歳も年が離れており、私はすぐさまネグリの批判者である思想家の千坂恭二氏にご報告し、「ネグリのように年の差婚も夢ではありませんよ!」とご提案したのを思い出す)。残念ながら国際文化会館が主催した姜尚中氏との対談「日本におけるアントニオ・ネグリとの対話」は選に漏れたが、日本学術会議が主催したシンポジウム「マルチチュードと権力:3.11以降の世界」には運よく参加することができ、会場では今は亡き情況出版の大下敦史代表(当時)がネグリに英語でインタビューをする様子を間近で目撃したり、昨年2月に死去した『放射能という津波』で知られるイタリア人ジャーナリストのピオ・デミーリア氏ともすれ違ったりしたが、拙いフランス語ながら勇気を出して話しかけた甲斐あって、ネグリは気さくに応対してくれて、自伝にサインをしていただけたのは本当に懐かしい想い出である。
 
おわりに
 当日の模様はYouTubeなどで現在も視聴可能であり、『現代思想 特集ネグリ+ハート』(2013年7月号)には来日記念インタビューが掲載され、2014年には『ネグリ、日本と向き合う』(NHK出版新書)という形で活字化されているため、詳細はそちらに譲りたいが、閉会の挨拶で吉見俊哉氏が「3.11はまだ終わっていないと思います」と述べ、ネグリの「原子力国家は死の権力である」という言葉を引用したのが非常に印象的であった。2024年1月1日に発生した能登半島地震によって原発危機の問題が再び注目を集めており、「原子力国家と民主主義は相容れない」と喝破したネグリの提言の数々は10年の歳月を経た今もなお現代的意義を持ち続けていると言えるのではないだろうか。

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