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読書記録 『一人称単数』 村上春樹

 「正しい嘘のつき方」を教えてもらったのは大学生の頃のことだ。
 教えてくれたのは常連客が毎夜溜まっている東京の片隅の小さなレストランだった。
 今風に言えばカフェ・レストランとでもなるのだろうが、看板にはしっかりと「レストラン」と書かれていたし、毎夜集まってバーボンだのウオッカだのを飲んでは夜中まであれこれと喋っていたとはいえ、店主のSさんは「ウチはレストラン」と譲らなかった。
 常連の一人だったU先生が教えてくれたのが「正しい嘘のつき方」だった。
 U先生曰く「最も本当っぽい嘘と最も嘘っぽい本当を並べ立てて、タイミングのいいところで『嘘っぽい本当』を実際に見せるとね。それまで話してた本当っぽい嘘が全部本当に思えるようになるんだ」。

 確かにどこまでも本当っぽい嘘と果てし無く嘘っぽい本当の間に線を引くのは困難だ。見極めが効くようなら、並べた嘘はまだまだ本当っぽさが足りなかったのだし、本当かどうかなどどうでもいいような嘘なら、誰でも日常的についているものだ。朝食に前日の残りのトンカツを食べていても「朝、トーストを食べていたら」と言ってしまうとか、牛乳をパックから直接飲んでいても「カフェオレを飲んでたら」と言ってしまうとか。
 そういう実際はどうだったかなんてどうでもいい嘘は世の中に山ほどある。村上春樹の最新作の短編集はまさにそうした作品だった。

 「小説」という冠をかぶせてしまったが最後、そこに書かれたものが事実であれ、事実に基づいたフィクションであれ、どこまでも現実とは無関係の虚構という前提で考えなければならない。
 たとえ作者が「これは実際にあった話だ」と書いていても、そう書いたこともまた虚構に含まれる構造的な可能性は頭から外すわけにはいかない。
 収録されている『「ヤクルト・スワローズ詩集」』は、村上春樹自身がヤクルトファンだと広く知られているわけだし、作中で『風の歌を聴け』というタイトルそのものが登場するし、『ウィズ・ザ・ビートルズ』では高校までを過ごした阪神間が舞台になっている。当然、読者は「ああ、これは村上春樹が過去にあったことをベースに書いているんだ」と感じる。それがミソなんじゃないかと思う。

 この手法は珍しいものじゃない。僕ですら何度かやったことがあるくらいだ。そして書いた本人の人となりが伝わっていればいるほど、現実に即しているように見える虚構は効果が高い。なんとなしに「ああこれは昔あったことなのかもな」と受け取って、それは拭えない。
 そうして虚構と現実の合間をゆらゆらとたゆたっているように見せかけて、実はどれも『品川猿』と変わらないほどの作り話なのかもしれない。
 いや、もしかしたら品川猿だっているのかもしれない。ウィズ・ザ・ビートルズのLPレコードを抱えた美少女が廊下で出会うのと同じくらいの可能性はあるのかもしれない(東大井あたりは3日に1度ぐらいのペースでうろついているが、まだ猿を見かけたことはない)。

 村上春樹の小説が苦手という人の多くは、その虚構ぶりについていけないように見える。でも『クリーム』みたいに嫌がらせで開かれもしない演奏会の招待状を送ることがないかと考えたら、もしかしたらあるかもしれない。確率は低いかもしれないけれど、ないとは言い切れない。学者に育てられた猿が日本語を話すことだってあるかもしれないし、名前を猿に盗まれて、時々自分の名前を思い出せない人が世界の何処かにいるかもしれない。
 でもそんなことが現実社会で起きようが、起きなかろうが、これは小説なのだからどうでもいいわけだ。

虚構を現実と受け取るか、妙にリアリティのある小説作品だと受け取るか、この短編集は両者の間のうまいところを突いたなあと、読みながら思った。
 虚構に見えることがもしかしたらどこかの世界では現実に起きているかもしれない。そういう実在可能性については、僕は割と肯定的だ。だって自分の知らない世界のどこかで小説と同じことが起きていようがいまいが、僕には直接的な影響などないのだから。
 そんなわけでこの短編集は非常に楽しく読めた。
 珍しく「これはちょっと」という作品なしに、どれも面白かった。
 個人的には『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』と『ウィズ・ザ・ビートルズ』が好みだったけれど。
 ちなみに村上春樹の短編では『蜂蜜パイ』が最高なのは変わりはない。

 それにしても自分を小説世界に放り込んで虚構と現実の間を構造的に見せようと目論む人間が自分以外にいるとは思わなかったなあ。現実ってなんなんだ?と不安になりそうになる。


(余禄)
『東京奇譚集』で書き下ろしだった『品川猿』が再び登場したのは、品川区民の一人として大変嬉しかった。
同じように『木野』の後日談や「裏話」、『パン屋再襲撃』から30年以上たったあの夫婦のその後も書いて欲しいもんだ。
 それにしても、発売になってすぐに買って、1年以上放置したままだったとは。すっかり忘れてたよ。

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