見出し画像

馬鹿につける薬、科学的であること、戦争から75年 | 日日雑記 /Aug.8

予防薬を処方してもらったものの、ちょっとした油断で頭痛は継続中。
読むのも書く余力もないままではあるが、何かしら書いていないとストレスになりそうで、日記のようなものを記しておくことに。
日記は自分だけが読むから日記なのであって、半ば公の場で開陳するものではないと思っている。いまのところは例外、非常事態ということで書くのだが。いずれにしてもプライベートに踏み込みすぎないように気をつけなければ。そもそも僕の日常など面白みなど、どこにもないのだから。

予防薬はてんかんの薬なのだそうだ。
以前も服用したことがあるのだが、なぜか効果がある。
頭痛とてんかんがどこでどう結びつくのか、まったくわからない。きっと僕の知らないところでちゃんと理屈が通るような研究がなされているんだろうが、不思議な感じしかない。
これならバカにつける薬も実はあるんじゃないかと思ったりもする。

「科学的に正しいらしい」とこれまでに相当な回数、口にしていると思うのだけど、実は何がどう科学的なのかわからずに言っている。
よくもまあ根拠不明のまま「科学的に」なんて言えたものだと我ながら思う。雰囲気でなんとなく言ってるだけで、「じゃあどう科学的なのか説明してみろ」と言われたら、何も言うことができない。
科学は現代の宗教だと僕はよく言うのだけれど、何だかよくわからないことを「科学的」とひとまとめにしてしまうことも、誰も反論しないことも、宗教にそっくりだ。

頭が痛いと本を読むことも、書くこともできないのだが、ありがたいことに音楽を聴くことだけはできて、椅子に寄りかかってぼんやりしている間、ずっと音楽を聞いていた。
もちろんジャンルにもよるけれど、10代の頃に聴いていた音楽の大半はすでに身体の中に溶け込んでいるのか、聴いていてもうるさくない。
急に昔のことを思い出されて、懐かしく感じるのだった。
記憶の箱を開ける鍵の機能もあるのかもしれない。

今年は戦後75年だそうで、この時期らしくテレビでも番組が多く用意されている。
明治生まれの祖父には出征経験があったが、父も母もまだ田舎の子供でしかなく、戦争自体の悲惨な記憶というのはほとんど残ってなかった。
東京大空襲の時に遠くの空が夜の間もずっと赤かったとか、食糧不足の東京から毎日のように物々交換に来る人がいたとか、空襲で余った爆弾を落としていったせいで、道に大きな穴ができたとか、そんな断片的な記憶しか聞いていない。

僕自身も高度成長の中、戦争は遠い過去のものだと思って育ってきたわけだが、平成が20年目を迎えた時に、自分が生まれたのが終戦から20年ほどしか経っていなかったのだと気づいて、ひどく驚いたことがあった。
長く生きるというのはこういうことなのかとも思うけれど、自分が戦争と地続きの中で生まれ育ってきたという感覚は年々増している。
時代が平成から令和に移ったときにも、30年続いた平成の長さを思うと、戦争が終わってから僕が生まれるまでの20年ほどの時間など、当時の大人たちにとっては「つい昨日の出来事」のように思えていたんだろうなと感じたのだった。

祖父母から聞いた話によれば、終戦の夏はとにかく暑かったのだそうだ。
それでもいまの東京の暑さと比べたら、ずいぶんと過ごしやすかったに違いない。

ぜひサポートにご協力ください。 サポートは評価の一つですので多寡に関わらず本当に嬉しいです。サポートは創作のアイデア探しの際の交通費に充てさせていただきます。