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読書記録2022 『どこから行っても遠い町』 川上弘美

 川上弘美さんの熱心な読者ではない。これまでにも『センセイの鞄』1冊を読んだきりだ。
 それでも図書館の書架でこの本に目が止まったのは、やはりタイトルの吸引力が強かったせいだろう。

 もともと「連作長編」という構造が僕は好きで、興味が強い。
 同じ主人公、同じ場所、登場する人たちが交代で主人公を務めていく展開、それらが時に薄く、時に濃く、互いに関係していくことで物語や、物語をドライブしていく装置を強化する。
 互いが支え合うのでも、二重連星のように間に重心がおかれるのでもなく、ある意味では不規則な関係性だからこそ可視化できるような、そんな曖昧な結びつきが連作長編の面白さなのではないかと考えてきた。

 そうした素地があった上で本作を読んだわけだが、川上弘美さんの創った「町」はまさに僕の頭にぼんやり浮かんでいた町の有り様に非常に近くて、イマジネーションによって作られたとは思えない現実味があった。
 もちろん登場人物たちは小説として必要なオブセッションを抱えてもがいているのだけれど、彼らは紙の上に刷られたインクではなく、今日、僕がこの町に生きていても目にすることのない誰かのように思えた。
 そうした目にすることのない既視感 —— 想像で補うことで屹立する現実味を持って小説のリアリティというのならば、確かに本作で目にした世界は「どこかにある世界」の一つなのだろうと思う。
 同時にそうした町が眼前に現れることはないのだということも良くわかる。「だから小説なのだ」と。

 ジェンダー論に踏み込む気は全くないのだが、少なくともいま活躍をしている小説家のほぼすべての人たちは男性性や女性性といった先入観を自然に浴びて、浸かって大人になってきた方々である(と、こうして書いている僕自身も同じようにして育ってきた)。意識的であろうがなかろうが、女性の作家が作る世界、その世界で目を向けるところと、男性の作家が目を向けるところでは自ずから違いが出てくる。個人差ではなく、境界線の見えないある種の傾向としてはっきりと現れるだろうという感覚がある。
 川上さんの作る世界は、連作の中で主人公に任ぜられる登場人物が男性であったとしても、やはり女性だから —— 女性性をアプリオリとして育ってきたからこそ見つけられる世界だったのかなと思わなくもない。

 本作を読みながら、僕の頭の中にはジム・ジャームッシュの撮った『ミステリー・トレイン』や『ナイト・オン・ザ・プラネット』がしばし浮かんだ。
 世界では数え切れないほどの出来事が同時並行で進んでいて、自分が知ることができることなど僅かですらない、微かにも満たないほどの小さな小さな出来事なんだろうと、読み終えたあとに強く感じた。
 その中から書き手、作り手は何を見つけるんだろうかと思うと同時に、どれだけイマジネーションを働かせて、世界中のどこにもない出来事を創り出そうとしても、自分の目には映らないどこかで、想像した出来事はきっと起きているんだろうとも感じる。それは安心と途方にくれることが同時にやってくる感覚だった。

(計12冊中の11冊目)

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