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読書記録(?) 『味噌汁は朝のブルース』 片岡義男

 ここ20年、新しい音楽はまったくと言い切れるほど聞いていない。
 その点、小説はせっせと新しいものを読んでいるなあと気がついて、原点回帰というほど大げさではないけれど、片岡義男の小説を数冊まとめて読んでみようと思い立った。
 我が家には著作のほぼすべてがどこからしらにあるはずなのだが、丁寧にしまい込みすぎて、家の中で行方不明になっている。
 探し出す労力をかけるのも面倒で、まとめて図書館から借り出してきた。

 片岡義男の初期の小説は、「小説」と聞いて思い浮かべるような起承転結、障壁と障壁の超越といった形式からは大きく外れる。心理描写などは数える程で、スクリーンに映し出される「ストーリー」を延々と見続けているようなところがある。
 しかもその「ストーリー」は小説的な意外性はなくて、どちらかといえばどこかの誰かには起きていてもおかしくないような、平凡な生活から地続きになっているような、でも「そんなわけないよな」と改めて感じるささやかな飛躍や偶然で出来上がっている。
 この作品に収録された5つの短編に登場する人物は、実際にもいそうなロクでもない連中ばかりで、読み返して見て「こんなものに心をときめかせていたのか」といささか驚くところもあった。

 ストーリーの内容とはまったく違う視点で気づいたことがある。
 片岡義男のように徹底した観察と描写でリアルな生活を書いていくと、そこには否応なく同時代の情報が書き込まれてしまうということだ。
 ネットや携帯電話など世界に登場するだなんて誰も思っていない時代の空気が小説に織り込まれている。連絡手段は電話か伝言か手紙。公衆電話は頻繁に登場し、人との出会いは前もって約束をしたものか、偶然かのどちらかでしかない。5分前に思い立って、Lineで連絡して、1時間後に会うなんてことは間違っても起こらない。
 その場で1時間後の天気もわからないし、明日以降の天気を予想するには気圧配置図から読み解くしかない。
 今のように夜と昼との区分が曖昧なまま24時間がすぎることもなく、夜は毎夜確実に世界が静まる時間としてやってくる。だからこそ夜の時間に生きる特殊さが際立つ。
 そういう時代を肌で知っているからか、「まったくそんな感じだったよな」と昔を懐かしく思い返すことができるというわけだ。
 10代の頃、リアルタイムに読んでいるときには憧れだったものが、40年経っていつの間にかタイムカプセルみたいなものになっていることに驚いた。
 小説というのはこういう効能もあるのかと気がついたのだった。

 先日、ETVの「100分de名著」で『カラマーゾフの兄弟』を取り上げていたけれど、『カラマーゾフ‥』も同時代を生きた人たちが読んだら「ああ、昔はこういう生活だったよなあ」と感じるところがあったのかどうか。
 国も違えば文化も違う上に、信仰心などわかりようもないという差異ばかりで、何度挑戦しても、いつも途中で挫折するのだけれど、そういう「意図せず読者を選ぶ」ということが小説にはあるのかもしれない。
 だとすれば小説というものの最も大きな存在理由は「現在の人に最もフィットすること」ということか。
 だとしたら、昨今の文体に違和感ばかりを感じる僕は、すでに世の中からしたら十分すぎるほど「過去」に属しているということになるのかもしれない。
 僕の目には単に文章が雑で、言葉の選び方や使い方がずれていて、似たような素材を持ってきて似たようなものをこしらえたレゴブロックみたいに思える「ライトノベル」と称するジャンクフードのようなものが氾濫しているだけに思えるのだけれど。

ともあれ、タイトルの格好よさは今のいまでも相変わらず格好良いままだ。「ミッドナイト・ママ」、「1963年、土曜日、午後」、「花が濡れてます」、「人魚はクールにグッドバイ」、「味噌汁は朝のブルース」。中身は本当にしょーもない連中ばっかり出てくるどうしようもないものなのに、それがこんなにも格好良く見えてしまうのだから、タイトルって本当に大切。
かつてそれだけで惹かれたように、今もやっぱり魅力があるままなのがとても嬉しい。

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