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コスタリカからこんにちは

初めまして。私の名前はnonoこと中村龍之介と申します。2023年の夏より中央アメリカに位置するコスタリカに半年間ほどの留学ををしている広島大学二年生で、コスタリカで盗難に遭い、思い出として盗難記を書こうと思いたったのですが、ここで少し私の生い立ちについて話したいです。ちなみにモットーはなんでも経験すると楽に生きるなので、盗難されたことも経験だと少し喜んでいるところがあります。

幼少期
2003年5月の1日日本人の父とミャンマー人の母の間に生を受けた私は東南アジアに位置するミャンマー連邦共和国で育ちました。子供の頃から二カ国後飛び交う環境で育った私は記憶のある頃から母国語が二個ある状態であり俗にいうバイリンガルというものでした。ミャンマーの旧首都ヤンゴンにある日本国大使館附属ヤンゴン日本人学校に通い始めた私は、日本式の教育をミャンマーで受けるというよく分からない育ち方をしました。その頃、ミャンマーはまだ軍事政権化で日本で最後のフロンティアなどとは呼ばれておらず、天下の東京外国語大学でも役に立たないと言われていたミャンマー語専攻であったため、わざわざ子供にミャンマー語を教える両親がいない中、私の両親は珍しく私と私の姉にミャンマー語の家庭教師をつけてくれたのです。これによりその時代には珍しい日本語とミャンマー語を母国語レベルで操る私が誕生したのです。同じ頃に私は英語の学校にも生かされていましたが、勉強が嫌いな私はその学校で何かを学ぶことはありませんでした。

中学生
ヤンゴン日本人学校には中学校まで存在し、高校からは日本に行くか、インターナショナルスクールを選ぶかのどちらかです。日本の教育を受けさせたかったうちの父は4歳上の姉と母を日本に送り中学生になったばかりの私は父と二人ミャンマーに残ることとなったのです。旅行会社に勤める父は私を会食やパーティーに連れまわし、英語で会話をしなければいけなかった私は自ずと3ヶ国語目である英語を習得していくのでありました。こうしてトリリンガルとなった私は鼻高々と自慢していたかというと全然違い、周りにもトリリンガルはゴロゴロといたため自分は至って普通なのだと信じていました。英検二級を小三でとるような奴らに囲まれたらそうもなります。ただし、やはり勉強は嫌いだったので学校の成績もすこぶる良いわけでもなく中の上ぐらいで収まっていました。

高校生
日本の学校に行くことになった私は姉の進学先であった岐阜に行くこととなった。岐阜市のほこる天下の長良高校(笑)に進学した私は実を言うと日本が怖くて怖くて仕方がありませんでした。日本にあまり馴染みがなかった私が、日本の勉強をするにあたって使った教材が数々の名ドラマでした。父に見せられた”女王の教室”や”ごくせん”に影響され、父には”お前もこう言う高校に行くんだよ”と言われればいじめなどが怖くて仕方がありませんでした。結局そう言うようなことはなく順風満帆な高校生活を送ることとなるのですが、意味がわからないぐらい浮いていたのは事実な私ですが、ありがたいことに友達には恵まれました。高校でもやはり勉強は嫌いだったので精製はいいとは言えませんでしたが、英語だけは得意でした。

現在
得意な英語(日本国内ではの話)を使い総合選抜型試験で広島大学総合科学部国際共創学科に進学。これまで勉強面で全て楽をしてきたのに特に痛い目を見たことがないのでこれからが怖いところではありますが、なんとか大学の授業について行っております。うちの学科はただでさえ大学内で浮いているのに特殊な生い立ちのせいか学科内でも浮いている方です。マルチリンガルになるべくスペイン語の勉強を始め現在コスタリカにて留学中。この間携帯を盗まれました。

こんな生い立ちの私ですが、拙い日本語で盗難記を書いていきますのでよろしくお願いいたします。こう言うことをするのは初めてなので何か間違っていることやご指摘がございましたらご指導の方もよろしくお願いいたします。PURAVIDA!






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