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はじまりの丘に戻る瞬間 - 第2回 THE NEW COOL NOTER賞、歴史部門2位ノミネート、ありがとうございます。

どんなに寝ても食べても眠いしおなかがすく。
もう今日は徹底的に休むことにしよう、とのんびり起き出した昼さがり、紅茶を飲みながらスマホを開いたら思いがけないお知らせが届いていた。

第2回 THE NEW COOL NOTER賞の歴史部門で、二位ノミネートを頂いたとのこと。

本当にありがとうございます。
とりあえず自分の名前にハッシュタグがついていて衝撃を受けました。

せっかくなのでこのコンテストに参加した理由などを書こうかなと思ったのだけど、「興味があったから」だけで終わりそうなので、別のことを。



このコンテストには、
「一〇六六年、ノルマンディー公ギョームがフランスから南イングランドのヘイスティングスへと渡り、ハロルド王との戦いの末、王座を勝ち取りイギリス王朝の祖となった」
との史実(ノルマン征服)をからめたエッセイでエントリー。

審査員の愛加さんからの講評で、
「いとさんにとってヘイスティングスは原風景なのでは」
といったような旨を書いて頂いたのだけれど、まったくもってその通りです。すごいなあ。

実はというか私のアイコンの画像、これがまさにヘイスティングスの丘。
それぐらいこの地には思い入れがあるのだ。



イギリスには留学を終えてから五回ぐらい旅で訪れていて、いつでも、まずさいしょにヘイスティングスまで南下して数日を過ごすことにしている。

はじめてのひとり旅のときだけが例外で、このときは勝手がよくわからずヘイスティングスまでたどり着ける最終電車を逃してしまったため、途中のカンタベリーで降りて宿をとった(二十三時に到着してB&Bを探すとかいう無謀な行為のわりには何故かどうにかなったし、しかもとても良い宿だった)。

今回、二位を頂いたエッセイでは、そのときのことを書いてもいる。

カンタベリーも大聖堂で有名な街だから午前中は大聖堂をうろついて、確か午後からヘイスティングスに足を伸ばしたら雨は降るわ道は間違えるわとさんざんだった。
けれども私にとってはあらゆる意味で忘れ難い体験と思い出になった。



二回目の旅行時に、ヒースローからチャリング・クロスまで地下鉄で行って南部に向かう鉄道のパネルを見ればだいたいその日のうちにヘイスティングスに到着できることがわかった。

日本からイギリスに直通の飛行機だと成田を午前に発ってヒースロー着は恐らくほとんどが午後の三時ごろ。そこから入国審査や荷物の受け取りをするとようやく地下鉄に乗れるころにはもう夕方。
ヒースローからロンドン中心部まで約一時間と見ると、当日にヘイスティングスに直行しようとするのは、あまりうまいやり方とは言えない。
地下鉄はともかく列車はしょっちゅう止まるので、いちおう、途中下車になったらどうするかも考えてはおく。
が、幸い、多少のトラブルが起きようと遅くても夜の十時にはヘイスティングスにたどり着けていた。

B&Bは駅から歩いて十分以内のOxford Streetに密集しているので探すのもそれほど難しくはない。一件ずつドアをノックして空室があるかを聞くだけ。
ただし地元の方はあまりOxford Streetという名になじみがないらしく、
「地図によればピザ屋の角を曲がったとこみたいです」
と伝えるほうが話は早かった。いったん場所がわかれば次からはもう尋ねる必要もない。



繰り返しになるが、ヘイスティングスは一〇六六年のノルマン征服(ノルマン・コンクエスト)ゆかりの地なので観光客も多い……かと思いきや、そうでもないらしい。
バカンスシーズンはさすがに混む。
海辺なので。
六割がた国内のイギリス人で。

わざわざヘイスティングスに来る外国人はどうも珍しい部類のようだ。

これは私も二回目のヘイスティングス(留学中を入れると三回目)で知ったことだが、実際にはノルマン征服の中の戦場はヘイスティングスからちょっと内地に移動した場所へと移り、戦いの決着もそこでついた。
今、そこは非常に分かりやすく Battle という地名になっている。
ウィリアム一世と戦ったハロルド王が戦死した場所も明らかになっており(ただし死因も含めて諸説あり)その戦いの犠牲を追悼するためウィリアムの命令によって Battle Abbey という修道院も建立された。

古戦場を敷地とするこの修道院の遺跡のほうが、国外の歴史マニアや国内の歴史研究家、また教育関係者には人気があるらしい。
観光シーズンの八月になると当時の衣装をまとった演者による戦の再現ショーも開催されるし、ノルマン征服グッズもたくさん販売される。

かといって歴史の地としてのヘイスティングスが軽視されているかといったらそうとも言いきれない。
ヘイスティングスにはウィリアムが滞在したヘイスティングス城の遺跡もあるし、やはりヘイスティングスならではの書籍や商品もいろいろと見つかるのだけれども、どちらかというと十八世紀に使われていた密輸業者の洞窟(Smugglers Cave)のほうが人気があるようだ。
洞窟のそばには小規模ながら水族館もある。ただし冬季は休業。
海辺なだけにフィッシュ&チップスもとてもおいしい。特に夏はどの店も満員になるほど。

だからやはり、ヘイスティングスといったら夏のホリデーの休養地としてのほうが人気があるのであって、ノルマン征服の歴史を追うならバトルを拠点にするほうが適していると言って良さそうだ。



けれど、私はこの先、またイギリスに行くことがあるとして、そのときはやはりまっさきにヘイスティングスに向かうだろう。
それはもう理屈でも何でもなく、初心にかえる場所だと私が思っているから。

二十代のおわりに半年ほど観光ビザでイギリスに居座ったことがある。
このときもさいしょの三ヶ月はヘイスティングスに滞在していた。
八月のホリデーシーズン、珍しく街はこみあっていてなかなか宿も見つからなかったが、駅から二十分はなれたところにあるホテルに一室だけ空きがあった。ツインルームなのに無理を言ってどうにかそこに入れてもらった。

初対面のときこそこのわがままな日本娘どうしてくれようと不機嫌そうだったそこのオーナーが、私が歴史に詳しいと知ると、とたんに顔を輝かせて、なら特に海外からのお客さんにヘイスティングスの歴史案内をしてくれないか、と頼まれた。
それからは朝食時によく呼び出されてはフランスやスペインやいろいろな国のひとたちにヘイスティングスで何があったかを説明し、聞かれれば時刻表を調べておすすめのルートを提案したりもすることになった。
おかげで三ヶ月の宿代を一ヶ月ぶんだけにしてもらえたのだから、南部のゆるさときたらただごとではない。
(観光ビザで入国している以上お金をもらうわけにはいかないため、ガイドはあくまでボランティア、割引はオーナーの太っ腹ということで切り抜けた)



ヘイスティングスに長期滞在をしたのはその時だけで、でも短い旅程であってもさいしょの一日から三日ぐらいをヘイスティングスにわりあてる癖はたぶん今後も治らない。

ヘイスティングスに行ったらまず宿を探して、食べて、寝て、丘にのぼる。
ぼうっと過ごした翌日にバトルに行き、余裕があればカンタベリーかライを訪ねる。

ライ Rye はアングロ・サクソン時代に首都だったこともある古い街だ。
運河が縦横する地形を、やはり小高い丘から眺めることができる。
するとテムズ河のあるロンドンと鳥瞰図がぼんやり重なり、首都に求められる物資の輸送手段の重要性が千年以上も前から変わらなかったことがよくわかる。
内地にあることで大陸からの直接の攻撃を避け、かつ、運搬は水路を利用して確保を途切れさせない。

ヘイスティングスはあくまで攻略された地であり、ハロルド王たちにとっては、はじまりどころかおわりの意味あいのほうが大きいのだとも言える。

それでも私はヘイスティングスに新たな一歩を刻みたがるし、そこに歴史との整合性はあまり必要ないとも思っている。



私のイギリスの旅はほとんど道のりが固定されていて、ヘイスティングス、バトル、カンタベリー、ライ、そこからソールズベリ(ストーンヘンジや大聖堂)、バース、そしてロンドン。
ロンドンから上に行くとしたらホストファミリーの住む中部か、またはウェールズ。

ひとりで一週間ぐらいだとだいたいこれでゆとりのある旅ができる。



何にせよヘイギリスに着いたらヘイスティングスに行く、というのが私にとっては自然なことだ。

ヘイスティングスの宿からホストファミリーに電話をかけて、今イギリスに来てるよと言うと、
「ヘイスティングスでしょう。うちにはいつ来れそう?」
と合い言葉のように通じる。

何度目になっても、やはり、私にとってははじまりの地で、はじまりの丘。

そのことを書いた文章をいろいろな方に読んでもらえたことが、ほんとうに嬉しい。



THE NEW COOL NOTER賞に携わる関係者の方々、講評してくださった愛加さん、読んでくださったすべての方に、こころからの感謝をこめて。

重ねて、本当にありがとうございました。





サポートして頂いたぶん紅茶を買って淹れて、飲みながら書き続けていきます。