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吐き出したら本質を見つけた、春の朝

その日が晴れていたか、雨だったか、くもっていたか。
おぼえていない。
雨戸を降ろしたままの、うす暗い六畳間。ぼんやりとした照明。蝋燭の火が揺れていた。
母と並んで座り、数珠を指に絡めて、同じことくりかえし、くりかえし、唱えていた。
いちいち何度目かなんて数えるようなものでもないけれど、頭痛の脈うちに重なっている感じがして、よけいに痛みが増した気がした。
それまで何とか抑えていたものが胃の底からぐっとこみ上げてくる。

「ごめんなさい」

口早に謝りながら数珠を置き、一礼して立ち上がった。トイレに向かおうと襖に手をかけた時、背後で母親の経がふっとやんだ。

「またなの」

まだなの、と聞き違えたかもしれない。
でも、確かめる意味なんてないし、結局どっちでも同じことだ。
私が答えずに襖を閉めると、その隔たりの向こうで母の声が再びくりかえしはじめた。私には意味すらよくわからない、文字に起こすと漢字の羅列になる、それ。
面白いもので、内容は一文字たりとも変わらないのに、人によって歌のようであったり、機械的であったり、叫びのようであったり、さまざまだ。
母の場合は最初の二文字に強い抑揚を乗せるからか、どこか鋭く耳に響く。

それがくりかえし、くりかえし続く中、私は這うようにしてトイレに向かう。
ここで戻しては駄目だと自分に言い聞かせながら。

そんなに大きい家でもないはずなのに、具合が悪いと空間の感覚もおかしくなるのかもしれない。ようやっと辿りついたトイレにへたりこむや、次の瞬間には便座に顔を突っ込んで我慢していたものをすべて吐き出した。

私はその嘔吐物より、食道から漏れ出る音の方が嫌いだった。濁音は頭にいやに響く。ただでさえ、嘔吐で力が入ってしまって頭痛が増すというのに。
ひとしきり吐いた後の脱力感も、うとましかった。急いで戻らなければいけないのに、休みたくなってしまうから。

休みたくなる。
本当のところは、休みたい。

嘔吐や頭痛に伴って目に溜まる涙を拭く、その間だけ、私は自分に数秒の休息を許す。
休みたいなあ。
休めるのだったら、別にベッドじゃなくたっていい。このトイレの床でもいい。清潔とか、快適とか、そういうことなんかどうでもいい。

休めさえすれば。

世界平和なんて祈っている場合じゃない。
小学校六年生の三月。
そろそろ卒業をまぢかにひかえたころ。
頭痛で朦朧とする意識とは相反して、私ははっきりと目覚めつつあった。
いま思っても、あの日、私は確かな分かれ道を歩んでいた。





私がひどい偏頭痛もちであることは、昨日のnoteでも書いた。
偏頭痛であることによって色々と苦しい思いをしたが、それはそれで仕方のないことだと割り切ることはできる。
病気そのものは誰のせいにもできないからだ。もちろん、大抵は自分のせいでもない。
しかし、そこに何かひとつが加わるだけでものごとは良い方にも悪い方にも転がる。

私の場合は、ちょうどその中間だったのではないかと思う。
中間であるために、無意識に努力をしていたと言ってもいい。





私が小学校五年に上がったころ、教頭の交代があった。
どうやらこの人は革新的な考えをお持ちだったようで、それまで慣例として行われていた行事やカリキュラムにちょこちょこと訂正を加えていたらしい。たとえば、それまでは六年生になったら国会議事堂を見学しに行くことになっていた。私はそれをとても楽しみにしていたのだが、この教頭は、
「六年生はこれとは別に社会科見学があるのだから国会議事堂見学をカットすべき」
と論じ、私の年に行事が一つ減ってしまったりした。
残念だなあ、と思っていたら、そのかわり、卒業式まえに学校内で謝恩会を開催すると言う。


謝恩会。
卒業式が終わった後に先生と大人たちが消えるあの時間帯のこと、といった認識しか私にはなかった。
私には三つ離れた兄がいるが、兄の卒業式の時もそんな感じではなかったか。
それを卒業式まえに、学内、もっと言うと講堂でやる、と言う。

父兄から反対意見が多かったらしいが、
「親が教師に感謝を示している場面を子どもも見ておくべきだ」
と押し切って開催の運びとなったと聞いている。
その時はじめて「謝恩会って先生に大人が感謝するところだったのか」と合点が行ったが、何となく、あの卒業式後にひっそり消えていくおとなたちが明るみに出てしまうようで、もったいないなと思った記憶がある。


そして、私の母がその実行委員の一人として選出された。
我が家は自営業である関係上、母が何らかの役員になったことはほぼ無い。
が、この時はどういうわけか、そういうことになったらしい。

「あんたがさっさと卒業しないから変なことに巻き込まれたわ」

と怒られたが、それならあと一年ぐらい早く産むべきだったのでは?と考える程度に、私はひねた子どもであった。


半年ほど前から準備をしに学校へ赴く都度、母は新しい謝恩会がどういったものか、私にぽつぽつ教えてくれるようになった。

卒業の一週間ぐらい前、講堂に卒業生が集まり、先生と親のために生徒が何か芸をする。
その後で子どもたちから教師たちと父兄代表にお菓子を贈る。
そのお菓子は卒業生たちがその場で仲よく食べる。

今こうして書いてみても「それ、謝恩会なの?」と改めて不思議にしか思えないのだが、ともかくそういうプログラムで、そのために実行委員はお菓子を用意したり芸を考えたり、いろいろ大変なのだと、母はくたびれた顔をしていた。


すべて伝聞のかたちになっているのは、私がこの謝恩会に参加しなかったからだ。

その当時の朝、偏頭痛になってしまったから。





「偏頭痛なの」

起きた時にはもう視界がチカチカしていた。
階段をそうっと降りてから、私が母にそう伝えると、母の顔がとたんにこわばった。その一秒まえまで、おはよう、と笑顔を浮かべかけていた、そのままで。
いつもならば、いろいろと叱られつつも早く寝なさいとせき立てられるのに、その日、母は戸惑ったふうに立ち尽くした。
その間にもどんどん目が見えなくなって、頭痛が始まろうとしている。これから始まることが怖くて必死に目を閉じていたら、母がふいに聞き返してきた。

「休む気?」

私はほとんど見えない目をうっすら開けて、母の顔色を窺おうとした。その意図がちょっとつかめない。

「謝恩会はどうするの?」

意味がわからない。
偏頭痛のキラキラに遮られて、母が見えない。頭がずきずきしているから、何だかよく意味がわからない。

「あんなに苦労したのに、何なのよ。あんたが私に感謝しなくちゃ意味がないでしょ」

私はまぶたを降ろして、そのまま二階に戻ろうとした。
偏頭痛は寝ていても実際は良くはならない。チカチカが消えて、頭痛に苦しんで、吐いて、落ち着くまでは何をしてもどうにもならない。
でも立っているのはつらい。

「着替えなさい」

私が耳を疑うよりも早く、母が私の肩を掴んだ。

「いつも通り勤行をして、学校に行くの。我慢できるでしょ」





母親はたいそう熱心な創価学会員だった。
だから私は幼稚園のころからそういった教育を受けていたし、小学三年生になったころには、登校前に短くて一時間、夜は二時間の勤行(お経)を義務づけられていた。
母は学会の活動が忙しく、店番を私に任せて外出することも多かったから、夜のお経は「もう終えました」と自己申告すれば追求されることもなかった。

しかし、朝はそうはいかない。
五時に起きて、着替え、仏壇の前に座る。
既に中学校に上がっていた兄は、朝の部活動に参加するため、早めの朝食が用意されている。
それに合わせて父も食卓につき、仕事が始まるまで、新聞を読んだり庭の手入れをしている。
母は朝の家事をこなしながらテレビを観ている。

襖一枚。

家族はあちらにいて、私はこちらにいる。
きちんと正座をして、母親に聞こえるよう、大きめの声でお経を唱え続ける。

当然ながらお経の意味はわからない。でも、わかる、わからないはどうでもいい。やらなければならないことなのだ。やらなければ、殴られる。





それまでも、朝に偏頭痛を起こしてしまうことはあった。
「そのぶん、夜は二倍やりなさい」
と言われ、とりあえず休ませてもらえていた。
なのに、この日に限っては違った。


「中学校に入ったら今みたいにぽんぽん休めないんだから」

そろそろチカチカが治まりかけていたが、かわりに頭痛がどんどん酷くなっている。
それでも母親の手がマッチを擦り、蝋燭に炎をともすところを、ぼうと眺めていた。

「我慢できるようにならないとこれから困るでしょ。中学生になったらもっと学会の活動も増えるし」

燃え尽きて焦げたマッチが、いつも通り、仏壇の下にあるヨーグルトの空き瓶へと放り捨てられる。じゃら、と数珠の硬い音が響く。その手が教本を取り上げて、開く。

「大人になったら世のため、人のために尽くすんだから、自分のために楽になろうなんて思っちゃいけないの。今から習慣づけなさい」

ほら、背を正して。まっすぐ座りなさい。

横から肘で小突かれる。今はそれだけで倒れてしまいそうなのに。倒れてしまいそうなのに。
倒れてしまいそうだ。
それでも私は背筋を伸ばして、おつとめの準備を整えた。





それから、二時間。
ずっとお経をあげている合間に、何度、トイレに吐きに行ったか。いちいち数えるものでもないし、その意味もなかった。
戻ってくると、母は一応、「大丈夫?」と聞いてはくれる。
私は一縷の望みにすがって「ダメ、つらい」と正直に答える。休みたいとは言えなかった。
母はそれを聞いたのか聞いていないのか、すぐにお経を再開する。私もその横に座り、数珠を取ろうとするが、すぐにまた立ち上がる。

もう、ごめんなさい、と断りを入れる余裕もない。

口をおさえて小走りにトイレに駆け込む。母の声が追いかけてくる。それがお経だったか叱責だったか、いまや区別がつかない。


吐けるものは吐きつくした。
苦い胃液が喉を焼いた。
水面に浮くあぶくを見下ろしながら、死んでしまう、と思った。

このままでは私は死んでしまう。





それまでも子どもごころに、創価学会について色々と思うところはあった。
お経は単純に面倒だったし、教祖の話は実に退屈だった。
学校で宗教の自由や、選挙のしくみを習うたび、私の家は例外だし、そういう法律は理想論なのだとあこがれていた。自分に関わりのあることだとは思えなかった。

だけどこころのどこかで、何かがおかしいとはわかっていた。

このままではいけないのだと。
何かが確実に間違っているのだと。
正しいことをさせようとしているのに正しくないやり方をしていると。


この朝、はっきりと、手にとるように理解した。


創価学会の問題じゃない。
母がおかしいのだ。
宗教が悪いんじゃない。
母が変なのだ。


このままでは死んでしまう。

自由に選べるはずのものを選べず、決められた政党がどうあろうと票を入れ、尊敬する人物は限定され、仕事も、友人も、いずれ結婚するならその相手も、うまれる子どものことも、すべてその原則が定められてしまう。
母の支配下にあり続けたら。


私の人生が死んでしまう。
いま、もう死にかけている。


それを必死につなぎとめているものは、自分の意志ひとつだけだ。


母親に死ねと言われたからって死ぬわけにはいかない。
感謝しろと言われても感謝できないならしなくていい。
これを信じろと私に命じる権利は誰にもない。


冷静に、落ち着いて、しっかりと区別をつけなければ。

創価学会と、宗教、母、大勢の他者。

それぞれと自分のかかわりを見つめて決めていかなければ、わたしは死んでしまうのだ。


偏頭痛のピークで消耗しきっている中、理屈でなくそうかぎとったのだと思う。
あの瞬間にすべてが一気に明確になったわけでもない。
きっと、それまでずっと積み重ねてきた疑問や違和感が、私を生かすための何かをしてくれたのではないか。
無意識に、ほとんど本能で、私は自分で私を生きるほうへと強く強く押したのだ。





ふらふらと仏間に戻ったとき、母はまた「大丈夫?」と聞いてきた。お経の一部ででもあるかのように。
私は、

「大丈夫じゃないから、もう寝る」

それだけを残して、仏壇の横を通り抜け、階段をとんとんと上がりはじめた。

行ってらっしゃい、がんばってねの一言もないの?

母の声が今度ははっきりと耳に届いたが、私は無言を選んだ。
しばらくして、冷蔵庫のドアを叩く音、がちゃがちゃと乱雑に食器を洗う音、そして最後に玄関の扉を力まかせに閉ざす音。
そのすべてを、私はベッドで横になりながら、ひとつももらさぬよう聞き届けた。
そうしてようやく目を閉じた。

これからはじまることを考えるのは、やめにしておいた。





その後、私はもう創価学会の活動に関与しないことを宣言した。
父は、そういうのは自由だからいいんじゃないの、とだけ応じたが、母はもちろん断固として受け入れなかった。
私が何か失敗をするたび、それ見たことか、信心をしないからだ、と嬉しそうにしていた。

ああ、このひとは私の幸せではなく不幸を待ち望んでいるんだなあ。

私はますます納得を強め、それでも子としてお世話になっている間は創価学会に籍を置きつづけた。
成人し、自分で選んだカトリック教会に通い、洗礼を受けたころには、籍なんてどうでもいいやという気分になっていた。





ものごとの本質は、籍とか票とかお経にかける時間とは何の関わりもない。
じゃあ何かと聞かれたら、まだ答えられない。
実は、どうしてカトリックを選んだの、と尋ねられても、やはりうまく答えられずにいる。

母がどの信仰を選んでいても結局あの母のままであっただろう、それと同じことで、私が自分で選べるのなら何だって良かったのかもしれない。
ただ、宗教を選ばないという選択肢だけは、なぜか考えもしなかった。

あなたは所詮、母親と同じことをしているじゃないか。

そう言われたことも一度ではない。
でもまったくのお門ちがいだ。
何故なら私は他人に強制をしないからだ。


宗教なんて理屈じゃない。
でも理屈っぽくあるようにしていないと、なんでも信仰や盲信になり得る。
自分自身を信じることだって、そういう危険性を孕んでいないとは言えない。

だから私は自分に対してできる限り批判的であろうと努めている。

自分をきちんと疑うこと。
感情だけでなく、知性とともに見きわめること。
知性は情報や知識とは別であること。
表面や評判でものごとを判断しないこと。
無意識を意識して探ること。


世界はわからないことであふれている。
わからずにいることが生きる意味でもあるかもしれない。
そんな心もちで、今日も私は生きて、居る。





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