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十年後のレシピは適温の関係から

カツ丼。

即答だった。ほとんど待ちかまえていたと言っても良い。

カツ丼?

早くも喰らいつかんばかりの私とは逆に、母はいぶかしげな顔と声色で聞き返した。

「作ったことないけど食べたいの?」

私は、あれ、と、いったん母の質問を反芻した。

食べたいもの、あるでしょ。今夜は何がいい?

一年間のイギリス留学を終えて帰国したばかりの、翌日。夏の入り口。日本の湿気の重苦しさに疲れが倍増するのを感じていた。
それでも、いや、だからこそ、カツ丼が食べたかった。





留学先に友人が東海林さだおのエッセイを送ってくれて以来、カツ丼が恋しくて仕方がなかった。

食べものを送るのは難しいから、これにしておくね。

友達の手紙は屈託がなかったけれど、いっそ残酷だった。
さして和食を好んでいない私でも東海林さだおにかかるとただの炊きたての白米すらごちそうに思えてくる。
特にカツ丼の描写ときたらもう大変なものだった。


カツ丼。ああカツ丼。
カツ丼が食べたい。





だから、何が食べたい?と聞かれて、カツ丼、と返したのだ。
いたって素直に。かつ、情熱的に。

「更科ので良いよ」
「更科?出前じゃないの」

母の驚いたような反応に、私は、また、あれ、と首を傾げた。
更科とは近所のお蕎麦屋さんだ。
たまにカツ丼を注文することもあるから、私にとってカツ丼とは、更科のカツ丼だった。
何もおかしいことはない。カツ丼はやく食べたい。

「もっと他にあるでしょ、カツ丼じゃなくて」

そこで母はわずかにはにかみ、目をそらしつつも得意げな調子で続けた。

「母の味が恋しいでしょ」

私は、ようやく母の言わんとしていることを理解しかけて、でも、何であろろうとただただカツ丼が食べたくてたまらなかったし、しかも、そもそも、だいたいが、

「母の味?何それ?」

つい、単刀直入に放ってしまった。
それもこれもカツ丼への性急な欲ゆえあってのこと。誰がカツ丼や私を責められようか。

母は私に視線を戻し、しばらく沈黙を守ったのち、盛大なため息を吐きこぼした。

「カツ丼ね。お寿司とかじゃなくていいのね」
「うん、カツ丼」
「わかったわよ」

わあい、カツ丼。
胸中で喝采をあげる直前に、あわてて付け足した。

「並よりワンランク上にして。あ、カツ丼てそういうのあったっけ?それ牛丼?」

その晩、食卓には輝けるカツ丼が二つ並んでいた。
淡い青の線が縦にはいったどんぶり。丘のように丸くせりあがった蓋。
カツ丼。これぞカツ丼。

たんとお食べ。

母のいやにもの静かな口調に逆らわず、一気にぺろりと平らげた。





カツ丼。
おおカツ丼。

余裕があれば、

「これこれ、東海林さだおも讃えていた卵のとろみ加減やカツの油が染みたごはんの味わいといったらもうカツ丼どうしてくれようこの最高すぎるカツ丼こうしてくれよう!食われてこそカツ丼も本望!」

などと蘊蓄まがいの一つも垂れただろうけれどそれどころではなかった。

とにかくカツ丼。
何をおいてもカツ丼。麗しき哉カツ丼。


なおそのエッセイでの次点は、
「鮭の皮でくるりとまいた一箸ぶんのごはん」
である。
あれもねえ、本当ねえ、もうねえ、ただごとじゃないわよねえ。





さておき、二人ぶんのカツ丼を堪能した翌日のメニューは記憶にない。
きっと、いつも通りの食事だったのだろう。

そうやって一日ごとに日常が戻り、帰国後という期間は終わりを告げた。


一年、日本を離れていたのだから、食べたいもの、あるでしょう。
親戚や友人によく問われたものだけれど、カツ丼のほかに、これといって恋しい食べものはなかった。

イギリスって食事まずいんでしょ?ともしょっちゅう聞かれた。
しかし私はイギリスで食生活に不満を持ったことがない。
ホストマザーは料理上手で、まめだった。冷凍食品をほとんど使わない人だったから、私はかなり恵まれていたのだと思う。
そのぶん、食べる量や栄養バランスには何かとうるさかったけれども、それだって食育なんてものとは無縁の家庭が多いらしい中、ずいぶんときちんとした人のところにいられて、ほんとうに幸運だったと今でも感謝しかない。





日本から出たことのない私の母。実母。
はたして母にその自覚があったかどうか。

母の料理は何というか、いまいちであった。
決して料理上手ではなかった。

誰しも得手不得手がある。
広い世の中、料理が苦手な母親だって、いる。

その事実に私が気づいたのは、まず大学進学のために家を出て自炊するようになったとき。
そして、私が二十六歳の年に母が他界したのがきっかけだった。





家事は私がやるよ。
父にそう宣言してから台所をさぐったら、出汁が見つからなかった。
ちょうど切らしていたのかな、と思ったが、何だか他にもあるはずの調理道具などが見あたらない。フライがえしとか、竹串とか、菜箸とか。

食事のしたくをしている母を手伝おうとしたことは何度かあったが、いつもさまざまな理由をつけて断られていた。

「台所に女は二人いらない」

それが母の決め文句だった。
仕方なく皿洗いを担当しようとしたら、それすらも嫌がられてしまう。

まあ、台所は主婦の城っていう人もいるからなあ。

そう思って恥ずかしながらも積極的に母の料理を邪魔しないようにしていた。


翌日、スーパーに買い出しに行き、顆粒出汁をはじめひとまず簡単な買いものを済ませた。
その後で父に、毎日のお弁当は朝の何時までに用意が必要なのかを尋ねた。父が弁当持参で通勤していることは知っていたから。
すると、夕食のあまりを自分で弁当箱に詰めているだけなので、前の晩の食事の品数と量さえ多めに使って別の皿に分けておけばそれで良いのだと言う。

「卵焼きだけ別に作ってくれると助かるんだけど」

無理ならいいけど。
そう遠慮がちに顔色を窺ってきた。ふんふんとメモを取りながら、何気なく質問を重ねた。

「卵焼きね。出汁巻きでいいの?」
「えっ」

父の声に、目線を上げた。びっくりしている。
私もびっくりした。どうしたんだろう。

「おまえ、そんなの作れるの?」
「は?」
「卵、巻けるの?」
「はい?」





後日、父が思い出ばなしを語ってくれた。


父と母が婚約して間もないころ。
母が、今日は私が腕をふるうわと申し出たらしい。

両親とも東北にある同じ県の出身だが、二十代になってから偶然にも就職先の埼玉で再会したのを機に交際を始めた。
就職先といっても、父は徒弟奉公の真っ最中であった。
のちに電機屋を営むことになるが、そうなるまでは既に店を持っている師匠のもとで住みこみで働いていたという。

父は昭和二十年、八月十五日うまれ。
戦中なのか戦後なのかはっきりしない年代。
それから二十年後の日本には、まだそうしたかっちりした師弟関係が自営業でも残っていたのだ。

父の部屋は師匠の家の二階にあったというから、母が「腕をふるった」のはどこだったのか。母も社員寮ぐらしだった。
もっとも、結婚してから数年は師匠の二階できゅうくつながらも暮らしていたというくらいだし、簡易的な台所でもついていたのかもしれない。

ともかくも、母の、否、婚約者の手料理。
もちろん楽しみにしていたと父は打ち明けた。
母は山奥の農家の、大家族の出だ。食事は十歳になるやならずの時分から任せられていたと聞いていたし、期待はひたすらふくらむ一方。

できたわよ。さあ、どうぞ。

母が披露した食卓を目に、父は硬直したと語る。

最初に浮かんだ疑問は、
「何の料理だろう」
だったそうだ。
目の前にあるのに、わからなかった。

とりあえず、湯気が立ちのぼっているお椀を手にした。
味噌汁だろうと見当をつけたのだが、危うく手を離しそうになるくらい熱かった。どうやら沸騰直後だったらしい。
何とか両の掌でがっちりと支えて、すすった。
無味。
色はあるけど味はない。
何かぷかぷか浮いている。さめてきた頃あいを見はからって箸ですくってみたら、びろんと長いわかめのところどころに切れ目だけが中途に入っていた。表面に顔を出していたのは、その切れ目の片端だったらしい。

白米は炊いたばかりなのに何故かほんのり黄色く、ところどころ紫色。
口に入れたらごりっと音がした。正体は未だに謎だそうだ。

魚はほぼ生焼け。
それに添えられた炒り卵を食べるとざりざりと殻の感触が頬の内側をえぐった。
母は上機嫌で今日は特にうまく巻けたのよと微笑んだそうだ。

他にもいくつかの料理が並んでいた。

父は東北の田舎でも商店の育ちだったこともあり、そこそこのしつけを受けていた。
出されたものは何であれ最後まで食べる。
その教えを忠実に守りつつ、胸中はまったく穏やかではなかったらしい。

さまざまな迷いが生じた。

一生、この人の料理を食べて生きていくのか。
一生、これを食べ続けるのか。
産まれてくる子はどうなる。
家族そろって短命に甘んじるのか。

逃げるなら今のうちだぞ。

にこにこしている母、否、婚約者を前に、味噌汁らしきものを最後まで飲み干してから、きちんと箸をそろえて置いた。
手をあわせて、ごちそうさま、とまで言った。

どうだった?

おいしかったでしょ、と、自分で聞いて自分で答えて自信ありげにしている婚約者に向かい、父は深々と頭を下げたそうだ。

「頼む。料理教室に通ってくれ。金は俺が出す」

その後はもうさんざんだったと父は語る。

母はわんわんと泣いて、何が悪いっていうのよとわめき、父は何がって料理が、と言いかけたあたりでビンタのデザートを喰らった。
このままでは結婚は無理だ、料理教室に通ってくれさえすれば、と父が半日をかけてなだめすかし、ついに母も渋々ながらその条件を呑んだらしい。

半年ほど母は料理学校で学んだ。
その成果を味わった父は、この世には努力ではどうにもならないことがあるのだと悟った。

それでも「料理学校に通う」条件は満たしたのだから、約束は約束だと。
潔く結婚しようと。
父は満たされぬ腹をくくったのだと、そう語る。





「あれでもましになった方なんだよ。それまでに比べると」

死人に口なしとはいえ、地獄耳を恐れてか、父は一応の弁護を忘れなかった。

「生焼けの魚はレンジで何とかなったし、いやあ、俺、電機屋で良かったよなあ」

どこか懐かしそうにしてさえいえる父を見て、なるほど、と私も納得した。

ざりっとした卵焼きは母の定番だった。
砂糖や塩を卵に加えた後の、かき混ぜる工程を大胆に省いていた。
それぐらいはさすがに気づいていた。
塩の大きな塊がごろんと卵のすきまに隠れていたこともある。

なんでかきまぜないの?

尋ねても、母は何ともいえない表情でごまか通した。
卵焼きも卵焼きというよりは四角に形成したスクランブルエッグだった。





私は子どものころ、ひどい偏食家だった。
が、今は豆腐以外に食べられないものはない。

出汁を入れた味噌汁は大学に入って自炊するまで知らなかった。
よその家やお店でいただくおいしい味噌汁は、お客さま用だと思いこんでいた。

自分で料理をするようになって、はじめて、日本にもおいしいものはたくさんあるし、ちゃんと手順どおりにやれば大抵は食べられると気づいたのだ。
だって食べられるもので作ってるんだから。





母の味。我が家の味。

そういうものは私にはない。
強いていえば、あの砂糖か塩の塊を核にした卵焼きのようなあれだろうか。

でもそういえば、兄は掻き揚げが好物なので、台所をあずかるようになってから何度か作ったことがある。
引きこもっていながらも一時期だけ食卓に顔をだしていたとき、特に文句もなくいくつも食べていたから、そんなに母のそれから逸脱した味ではなかったのだろう。

父はシンプルな焼き魚やおひたしを好む。
が、私が冬のメニューに導入したポトフは気に入ったようで、よくおかわりをしていた。

肉じゃがも、あまった肉じゃがをつぶして作ったコロッケも、豆腐だけは絶対に入っていない味噌汁も、勘で作ったフィッシュアンドチップスも、とりあえず文句が出たことはない。





次に父のために作る料理はお年寄り用のメニューだろう。
兄にもローカロリーで、かつ、血圧に留意したものを用意しなければならない。

つまり私があの台所に立つのは、主に介護のために家に戻るときだ。

それでも、たとえば痴呆が始まった父が、生焼けの魚を食べたいと言えば用意するだろうし、油でぎとぎとの掻き揚げを兄が望めば、私は作ると思う。

私には「母の味」というものはないけれど、ふたりにはありそうだから。
それがどんなに身体に悪いものでも、母の思い出だというのなら、太刀打ちできはしない。

いっさいかきまわしていない卵焼きだって作ってやる。
そのあとで私もおなかいっぱいカツ丼を食べるんだ。


恐らく十年後には現実の皿にのるだろう我が家のレシピを、私は今からちょっとずつ想像している。
中途のイメージを味見しては、できるものなら一口ごとに回復していけるようなスパイスを、ひとふり、ふたふり、ためしに足して、引いて。

なんてことのない味を残せるように。
さいごは食材や道具ではなく、日常の関係がものをいう、そんな一皿を差し出せるように、そのとき私はなっていたい。
そう、願いをこめて。






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