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悪魔の子と私は決して出会わない。

何か嫌なものごとを嫌でなくするために、私がとる方法のひとつに、こんなことがある。

たとえば、ある人のあることばに傷つけられたとする。
その人はそのとき、赤い色の服を着ていた。
嫌だったことばの中にある単語や、赤い色を目にすると、反射的にそのつらかった思い出が頭に浮かんでしまう。
だからできるものなら避けて通りたい。
でも、標準的な日本語や、赤色を徹底的に排除して生きることは、ほぼ不可能。

なら、自分で使ってしまおう。

仮に、
「あなたは雑だ」
と言われたなら、
「雑」
この一語を日記でもツイッターでも会話でも、意識的に多用する。

「あなたは雑だ」
と言った人が赤い服を着ていたのならば、赤いペンを買ったり、キットカット(スタンダードタイプ)をおやつにしたり、赤いピアスをつけてみたり、何なら赤い服を着てみたり。

嫌な記憶を、自己流にアレンジしてよみがえらせることによって、
「何てことないな」
そんな感情で上書き保存をする。

ちょっと荒療治だし、内容によっては適用外になることもあるが、案外、いつの間にか「雑」や「赤」で傷に塩をすりこまれるような感触は消えている。


もうひとつ例を挙げると、二十代ぐらいのころ、私は母の「ガチガチだ」という言い方がとても嫌だった。
この場合は、「ガチガチ」が、というより、母の口調がきつかった。
ちょっと自分で再現しようと思ってもできない。
ただ、とにかく語気が強いというか。もちろん、褒めことばで使われることなんか絶対にないから、よけいに嫌だったのだ。
「あのひと、娘との関係がガチガチなのよ」
私にとっては「仲いいんだなあ」ぐらいの感覚なのに、母に言わせれば、
「ガチガチなのよ。親子ばなれができていないのよ」
と、マイナスポイントになるらしい。
同様で「べったり」もあった。
まったく普通の日本語なのに、母の口調がやはり独特で、とにかくきついのである。
「あのひと、娘とガチガチでべったりなんだから」
となると、もうその場にいたくなくなるほど。

だから「ガチ勢」といった表現がちょっと前まで苦手というか何か目にしたり聞いたりしただけで軽く怯んだし、べたべたしたお菓子も「べったり」という、あの言い方をつい思い出してしまうので、おいしいと知っていても進んで食べる気になれなかった。

それも自分からくどいぐらい、
「ガチ勢なんすよ!」
と楽しげにしてみたり、
「このべったり感が芳醇なコクとまろみのフロマージュ、いやマリアージュ」
みたいに茶化すことで、これは上書きはできていなくても、少なくとも母を連想することはほとんどなくなった。

どちらかというと逆転して、
「あなたの母親はどういう人でしたか」
といった質問に、
「ガチガチとかべったりとかの口調が独特で、悪意はないのかもしれないけどちょっとした会話の中で好印象を与えるタイプではなかった」
と答えるようになった。
「その言い方を自分では真似できないので、どういうふうだったかは説明が難しい」
と加えることもある。

好悪、とりわけ後者の感情や記憶は、そこで発せられたことばや表現、物言い、印象などと紐づけされやすい、という話。





今度のドラクエは勇者が「悪魔の子」らしい。

最初にそう聞いたとき、ちょっとぎくっとした。
あ、まだ自分のものになってないんだな。
そう気づいて、ブラウザを閉じようとして、いや、でもドラクエだし、と気を取り直して、スマホに目を戻した。


「ドラゴンクエストXI  過ぎ去りし時を求めて」

発売は三、四年ぐらい前の七月だったろうか。

まずPS4と3DSでリリースされた。
ストーリーは同じだがビジュアルや遊べる部分が違うということで、ファンの間ではどちらを買うかちょっとした論争になった気がする。
私はその頃まだPS4を持っていなかったので、3DS版をプレイした。

それから数年後の去年、Switch版に移植とリメイク。
フルボイスになり、おまけ要素が多かったため、またもやファンは騒然となった。
私は迷った末、これを機にSwitch Liteごと購入してプレイした。

そして今年の年末、つまりもうすぐ、Switch版をPS4、Xbox、steamにまた移植するらしい。
ファンはもう「一体11でどれだけ稼ぐつもりなのか」と憤然としつつ(そんなことないですか?ならガチですみません)、それでもSwitch版がすごく良かったので、まあSwitch版を買わずにいた人も買った人も買ってしまいそうである。
なお私は今回は見送る予定でいる。今のところ。





ドラクエ11の勇者は「悪魔の子」である。
そういったことはパッケージの裏にも書かれている。
確か、

「勇者は『悪魔の子』と呼ばれた」

そんな感じのキャッチコピー。

実際どうなのかというと、序盤で確かにそのセリフは出てくる。
主人公は勇者のあざを持って生まれてきたのだが、十六際になって成人の儀を終え、王に謁見したところでいきなり逮捕されてしまう。

「勇者を名乗る者の正体は悪魔の子だ」

王がかねてより国いちばんの将軍にそう言い聞かせていたため、勇者はあっという間に兵に取り囲まれ、投獄される。

その後も何かと、
「悪魔の子を捕らえろ」
と追われ続ける。

勇者は逃亡しながら冒険を続けていくことになる。





何故、悪魔の子と呼ばれるのか。
勇者は、勇者のしるしであるあざを持って生まれたから、はじめは「この子は勇者だ」と大歓迎された。
それが各国の王が集まる席で、最近、魔物の動きが活発だという話から、

「勇者が生まれたからではないか」
「魔王を倒すことが勇者の使命なら、魔王と勇者は表裏一体ではないのか」
「勇者こそ悪魔を呼び寄せている当人だとしたら、それは実質、勇者が魔なのではないのか」

何だかわかるようなわからないような理屈から発展して、

「勇者か」
「悪魔の子か」

と問われるに至る。





ストーリー上では、その問いは実はさほど追求されない。
ドラクエの主人公なので、まあ、勇者だろう、と恐らく大半のプレイヤーは疑いを持つこともない。「悪魔の子」という呼び名はなかなかインパクトがあるが、物語を盛り上げるための一要素であることは容易に推測できる。
どちらかといえば、

「勇者とは何か」

こちらの方が重視され、「勇者のあざを持つ少年(青年?)の成長物語」の王道を行く。





プレイしている間、「悪魔の子」と呼ばれるたび、ちょっと臆したものの、そんなに過敏にもならず、最後まで存分に楽しめた。
もちろん作品として優れているからこその堪能であったが、主人公の名前は自分でつける、というドラクエの伝統的なシステムが私にとっては功を奏した気がする。

だいたい全体の九十八パーセントは自分のつけた名で呼ばれ、「悪魔の子」と指をつきつけられる場面はそんなに無い。

自分で「あくまのこ」と名づけでもしない限り、「あくまのこ」とは呼ばれない。
特に仲間からは絶対に呼ばれない。

ドラクエは基本的に善が主人公、悪が敵。
この分かりやすい構図は崩れないし、キャッチコピーがどうあれ、「悪魔の子」と呼ばれても、ただ呼ばれているだけで本質では決してないのだ。





「最新のドラクエでは勇者は悪魔の子らしい」

私がこの情報につまずきかけた理由は、私がそう呼ばれていたからである。

何か母の意にそわないことをすると、よく、

「おまえは悪魔の子だ」

と罵倒されたものだった。
他にも「じゃっき」という呼び名もあった。

「邪悪な鬼と書いて、邪鬼、だよ。おまえは鬼だ。邪鬼だ」

と。

いいえ、違います。
あなたの子です。
私が悪魔の子で鬼なのならば、あなたが悪魔で鬼ですよ。

そう言え返すようなことは、私はしなかった。
だって母親は人間で、人間だからこそそういう理屈にあわない傷つけかたをしてくるのだと思っていたから。

そう。
私は傷づいていたのである。

冷静に、「そんなわけがないでしょ」と判断しながらも、やはり無条件で、傷つくに決まっている。悪魔だの鬼だの言われたら。
泣くと、

「赤鬼が泣いた、赤鬼が泣いた」

と母と兄にはやしたてられるので、ずっと何も言わずに我慢していた。

それに、「邪鬼」というのはたぶん仏教用語だろうなと察して、創価学会で使われている用語だとしたら、やっぱり私の本質とは無関係だし、母は何でも借りものでろくに意味も理解してなさそうだし。

ただ私が傷つく姿が見たいだけなら、意地でも見せたくなかった。

何とか理性で抑えこんでいたものが、たまに生々しく外界の風にこすられて痛い思いをすることはあったけれど、こればかりは上書き保存方法は使えない。

「他人に向かって鬼とか悪魔とか言いたくない」
「他人に向かわなくてもそういうことばを不適切、かつ不用意に使いたくない」

そんな感情が自分にあるなら、私はむしろまともじゃないか。

そうやって何とかしのいできた。





母が亡くなった後、もう私を「邪鬼」と呼ぶ人はいなくなった。

しかし、昨日はっきりしたこと。
父は「悪魔」呼びを継承していた。

父は私の家族のなかで、はじめて私を「キチガイ」と呼んだ人でもある。

それを学習したのが兄だ。許可を得たといってもいいだろう。
まだ一緒に暮らしていたころ、ある晩から、毎晩まいばん、私の部屋の外で、

「キチガイは死ね、キチガイは死ね」

とくりかえすようになり、父に助けを求めても、

「だっておまえキチガイだからあの子は正しい」

と言われ、ズタズタの状態で何とか家を脱出した。

当初は避難のつもりだったが、昨日になってまた事情が大きく変わった。





「悪魔」

玄関を開けて私の顔を見るなり、父はそう言った。
私は泣いていた。

理由は本当にくだらないことで、本棚の留め具がちょっとした拍子ではずれて中身がぜんぶ外に出てしまって、何とかしようともう五時間もひとりで奮闘していたのだ。
立て直しては壊れ立て直しては壊れ。
まさしく三途の河辺のように。

もうそれはもとに戻らないのだと頭でわかっていても、いや、私が不器用で、出来が悪くて、ダメな人間だからで、普通のひとなら五分で修復できるところを私は五時間かけなければいけないのだと、なら五時間がんばるしかないのだと、もう、思いこんでしまっていたのだ。

その間、何度か、手先の器用な父に助力を求めようかとも思った。

けれどこういうことを頼むと、大抵、父は本を買ったこと、本棚を買ったこと、私がすぐに父を呼ばなかったことを責める。
兄のことを持ち出して、兄のぶんまで責められる。

それが嫌だったから父を避けたのだけれど、五時間もやっていたらもう自分ではどうにもならなかった。

その点を父に電話で告げた上で、来てもらった。

玄関を開けるや、散乱した本やケースが父の目に入ったのだろう。
父は几帳面な人で、ちらかった部屋を嫌う。
でもこれはちらかしたのではなく、本棚が壊れてしまったから、という理由がある。
電話で伝えたはずだ。

それなのに、父はそれだけで激昂したのだろう。

「悪魔、死ね」

そう言われたので、私はああ、やっぱりこうなるんだ、それにしても今回の一言はひどいな、ここまで来ちゃったんだな。
そう、泣きながらどこか冷静に理解し、

「来て頂いて申し訳ないけれど、お帰りください」

そうはっきり伝えてドアを閉めようとしたら、強引にドアを開けられた。

「親に向かってその口のきき方は何だ」

私はもう泣いていなかった。

「お父さんこそ、親子、関係なしに、人を悪魔と呼ぶなんて、その口のきき方は何なんですか。帰ってください」
「悪魔に悪魔と言って何が悪い?おまえは悪魔だよ」

胸ぐらをつかまれ、頬を何度も平手うちされ、

「悪魔は死ね」

押し倒され、頭を柱にぶつけたと思ったときには、もう首を絞められていた。





悪魔、キチガイ、殺す、死ね、自分で死ね、どうせ自殺する勇気なんかないんだろ、俺の手を汚すな、早く自殺しろ、死ね、ほら死ね死ね、さっさと死ね、悪魔、悪魔、悪魔。

何度もそう言いながら父が帰ったあと、数時間をかけて落ち着いてから、警察に通報した。

もう、私の手に負えない。

壊れた本棚が、普通の人ならとか、私が劣っているからとか、そういうことではなくて、何時間かけても、もうもとには戻らないのと同じことで、父は壊れているのだと、でなければ、ああいうことを言ったり、したり、するはずがない。

そう、ようやく、思えたから。

私は首を絞められるいわれなんてないし、悪魔でもない。

これを許してはいけないし、許さなければいけないことだとしても、私は許さない。

警察を頼りにすることで、私は自分の意志と感情を父に伝えたのだ。

十年まえ。
兄の暴言から逃げたときは、避難だと思っていた。
昨日は、離別だと悟った。

私は何なら悪魔なのだから、冷淡にだってなれる。





事情聴取の途中で、警官がペンを手にしたまま聞いた。

「あなたは精神科にかかってらっしゃるのですね」
「はい」
「お父さんは?」

私は淡々と答えた。

「父は精神科にかかっていません」
「でもこれまでこういうようなことが何度もあったんですよね」

情けない話だと思う。
私はうなずきながら、

「何度も父に精神科やカウンセリングを勧めてきました」
「そうしたら?」
「親を侮辱するなと叱られておわりです」

なるほど、と警官がまたメモを取る。

「その際、殴られたりは?」
「ありません」
「今日がはじめて?」
「はい」
「暴言は?」
「しょっちゅうです」
「悪魔とか、死ねとか」
「そこまで言われたのは初めてですが、遠まわしに死んでも構わないとか、なんで死なないんだとか、キチガイとか、そんな感じです」

そんな親父とはもう関わらない方がいいんじゃないの?

隣にいたもう一人の警官が、面倒くさそうに言う。その通りだ。私だって何度もそう思った。
でも割り切れなかった。
それは、私の過失ですか?

兄のひきこもりを何とかしたい。
そう訴えてくる父に、私は医者へ行くしかないと答え続け、でも子どもじゃないんだから、ひきずって連れていけないし。面倒だし。
それが父の常だ。

「今、お父さんは署内で事情聴取を受けています」
「はい」
「我々の方からも精神科の受診を勧めるつもりではいますが……」
「言うこと、聞かないと思いますよ」
「そうでしょうね。我々にも強制力はないので、申し訳ないのですが」
「いえ、警察の方が謝ってくださるようなことではありません。父は面倒がっているだけですから。それで結果がこんなに面倒なことになりましたけど、自業自得です」





子どもじゃないんだから、ひきずっていけない。

そう主張する父に、私は何度も言った。

引きずっていけばいいじゃないか。親なら。何歳になろうと、子なら。心配なら。何とかしたいなら。引きずっていけばいいじゃないか。

私はこれまで何度も、自分のことも同じように思っていた。

私が我慢すればいいじゃないか。十年後には父の介護をするだろうから、私が実家に帰って兄がそのままなら私が兄を引きずっていく。この十年はその準備期間でもあるし、十年、たのしいことも、やりたいことも、全部やりつくすんだ。

でも、もう、十年後なんて。
家に帰るなんて。

首を絞められてまでやることじゃない。

私はもう、やるべきことは全部やったはずだ。
たとえ成功していなくても、挑戦だけはずっとしてきた。





兄に父の介護ができるかどうか。そんなの、その時にならないとわからない。
案外、できるかもしれない。
けれど、痴呆になったり何なりで兄が父に対してカッとなったら、どうなるか。そういう事件は世の中にあふれてる。

でももう関係ないよ。

私は精神科に通いながらひとりで食っていくためにいろんな手段をとってきた。
福祉の力を借り、医師やカウンセラーと相談し、何とかできる仕事をして、できない時は休んで、休むために必要な努力もした。

父が「こんなキチガイの家」と罵るこの築七十年の借家だって、当時、職もなく、福祉のバックアップだけが頼りで、父は保証人を嫌がる、そんな中、百件以上も不動産屋さんに電話しては断られ、ようやく見つけた家だ。

本当なら安全で、こぎれいで、治安のよさそうなところに住みたい。

でも現実はそうはいかない。
妥協した。納得して、自分で選んだ。
なんだって気の持ちようだ。
屋根があるだけ、正直なところ、ありがたいぐらいだ。





私は与えられるのを待っているだけの人間じゃない。
自分から出向いて探して、見つける。
悪魔でも鬼でもない。
人間だから対応してくれるのだし、助けてもらえている。

私が悪魔になるのだとしたら、それは父が勝手にそう設定しているだけだ。
罵声を浴びせ、追いつめ、あげく首を絞めて、それで、

「もう、おまえこそ、死ね」

そう、かけらでも思わないわけがない。

「私を殺そうとするやつは、死んでくれ」

私は聖人じゃない。
でも悪魔でもない。
ただの人間だ。

ちゃんと私を見てくれる人なら、それを理解して、私の話を聞いてくれて、適切な手助けをしてくれるのだ。

私はこれまでこころのどこかで父や兄に理解や寛容を求めていたが、もうやめた。
求めるべき場所は、そこではない。

私を悪魔と呼びたがる人たちと仲間にはなれない。

「自業自得なんです。私の家は、私も含めて、全員」

もう、家族、と呼びたくない。





「ドラゴンクエスト11」で、勇者が突然、「悪魔の子」と呼ばれたとき、どう思っただろう。

ドラクエの主人公はあまりに無口だから想像するしかないが、「悪魔の子」として追われる間、主人公はいつでも必死に、せいいっぱい、逃げて、走って、走りつづけて、新しい土地にたどりつく。

「悪魔の子」の冒険は牢屋の脱出から始まり、彼を支えてくれる人たちと出会い、海を渡り、空を飛ぶ。

それは彼が「悪魔の子」じゃないからではない。

はじめは「勇者だから」、理由はそれだけだったかもしれない。

でも主人公だって望んで勇者になったわけではないのに、それでも何があっても決してあきらめず突き進んでいく。

あの足どりが、勇者らしいとか、清く正しく美しいとか、そういうことでもなかっただろう。

ただ単純に、一生懸命だから。
それまで共にした旅の思い出に笑顔がたくさんあるから。

案外と、そんな理由かもしれないし、最終的には、理由なんかないかもしれない。

強いて言えば、それぞれの意志がいつの間にか同じ方を向いていたから。

勇者を助ける以外にも旅をする目的が、それぞれに、ある。

だから、冒険が終わって、おのおの家に帰る時、これでお別れじゃないと思える。
いちど旅だてたのだから、また会える。





私の冒険はたぶん昨夜、いったん最初のセーブポイント手前に戻った。

これからだ。

「悪魔」
「鬼」
「キチガイ」

どんなふうに呼ばれても私は振り向かず、自分のあゆみはとめない。

出会うべき人と出会い、別れ、また出会う、そういう人生を送るだろう。

普通の、ありきたりの人生を。





「悪魔」は、「悪魔の子」は、父の中にしかいない。
そして私はその子と出会うことは、きっとない。

どこかまともな医師のところでちゃんと溶けて消えれば良い。

そう願うけれども、そのために何かをしようとは、今はまったく思わない。





できれば、引っ越したいなあ。

車が通るとつい、父だったらどうしよう、と不安になるからというのもあるけど、それを差し引いても、どこか別の、まだ訪れていないところへ、行きたい。

でもなかなか簡単なことでもないから、それまでは、今いるここで、あたらしい気持ちで、あたらしい目線で、いられたらいい。

帰る家は、ひとり暮らしでもつくれる。

はじまったばかりの冒険が終わるころには、そんな場所ができあがっていればいいな。

猫さんがいてくれたらいいな。

自分のにおいがする部屋で、紅茶を飲んでのんびりできるなら、もう充分。


それでいい。

そんな感じが、いい。




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