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【淡く、藤色に輝くまで】 #選択のあとに

「結婚だけはしないで。」
「子供だけは作ったら駄目。」

それが母の口癖だった。
実家の押し入れの奥にある何枚もの絵。これでもかというほどカラフルなその絵には、大人の姿の私と、ドレスとハイヒールとティアラ。その横には「およめさん」とぎこちない平仮名が書かれている。この辺りまでは、結婚願望があったらしい。
このあと、私の体に母の呪文が降り注ぎ、その願望は中和されていったのかも知れない。

中学生の頃、友達に結婚願望の有無を訊かれ、「結婚は、してもしなくてもいいもの。」と吐息のようにするりと言ったのを思い出す。
結婚というものに特段なんの憧れも偏見も持たずに育ったわけである。


思えば、母はいつもあの呪文を唱えるとき真剣だった。にこりともしなかった。
いつも、私の眼の奥に、染み入るように唱えるのだった。

          ∇∇∇

二十歳で結婚しすぐに子供が生まれた母は、その後三人の子の親となり、専業主婦となった。何年も出稼ぎをした父の苦労ももちろんあっただろうが、家のことや子供たちのことを全て受け持つ母の苦労も凄まじいものだったろう。

穏やかに見えて負けん気の強い母は、きっと働きたかったのだと思う。若いエネルギーを社会に注ぎたかったのだと思う。自分の為に注ぎたかったのだと思う。あんな狭い家に縛られることなく。

「あの頃流行った曲なんて、一曲も歌えないよ。」
テレビを観る余裕さえ無かったという母が、懐かしのヒット曲とやらの番組を前にそう嘆く。
なのになんでアンタまで、あれ程結婚出産はするなと言ったでしょう、と始まりそうで、その嘆きを拾わずにそっとそこに置きっぱなしにする。

         ∇∇∇

 
二十四歳。
私は南国の島にいた。
バックパック一つで日本を飛び出し、そのバックパックすら重く感じて安宿に置きっぱなしにして、私はビーチに出た。
店主と客のやり取りを斜め後ろに聞きながら、木陰でナシチャンプルを食べる。
私が百円で買った一皿が、ローカルには四十円で売られ、その後来た白人観光客には百五十円で売られる。そんなもんかぁ、とアイスティーを口元に運びながら海を見る。

ビーチには、色んな人達がいた。日焼け知らずの日本人カップルや、マッサージや髪の編み込みをするローカルおばちゃん達に、ビール瓶とサングラスばかりの欧米グループ。
ざわざわちらちらと揺らめくカラフルな人や物、そこで繰り広げられる人間模様を眺めながら私は、もう一口、アイスティーを流し込む。

その時だった。
一人の男性がそのざわめきの中をゆっくりと横切っていった。
それはもうスローモーションのように。
周りが早送りなのか、彼がコマ送りなのか。まるで合成映像のような違和感に目がよくついていかない。必死に彼に焦点を合わせる。

誰だろう。
私の脳は確かにそう呟いた。
そんな、一方的な出会いだった。

食べ終わると、私は歩き出した。さっきのスローモーションの彼は、人と物の雑多に紛れ混んでしまったのか、もう居なかった。

         ∇∇∇

その後、私達は偶然に再会し、瞬く間に加速する。底なしの深い深い穴にもの凄いスピードで落ちていく。あまりの速さにぎゅっと互いの手を握る。
あんなにどうでもいいと受け流していた結婚の二文字が目の前で激しく点滅した。



結婚生活はラクではなかった。
世界一周を途中キャンセルし、日本で住み始めた若い二人に、リーマンショックが吹き荒れた。急きょ働き始めた私と、日本語も出来ずに日本に付いてきた彼にはもちろん金も何もなく、それでも「好き」の熱量だけはあったと言えたら良かったのだが、その感情のみで軽々乗り越えられるほど、文化や慣習や宗教の壁は低くはなかったのだ。

真っ赤に燃えるような彼の性分と青く低く揺れる私の性分の差も、よく仲違いに繋がった。
荒波を苦しそうに泳ぐ私達は、たまに手がぶつかったり、足が触れたりするくらいの距離でなんとか並走していた。
知り合いの夫婦が別れて、男性は生まれ育ったあの南国に帰ったと聞いた。別れという言葉はいつ何時も二人に被さった。

何度吐いただろう弱音に、何度ぶつけられただろう不満に、二人で歩いたあの暗い日々に、自由のきかないこの場所に、遠ざかってゆく互いの姿に、帰れないあの日々に、
何度放り投げようとしたか知れない。

私の決断は、私達の決断は、この結婚は、間違っていたんだろうか。

母の呪文が忍び寄る。
黒く重く響きながら。
足元から絡まり、徐々に徐々にねっとりと腰の方まで絡みついていく。
心臓にまで到達したら、私達は、もう終わりだ。

         ∇∇∇

早朝、冷たい葡萄ジュースを飲んで静かにグラスを置く。
揺れる氷の粒を眺めていた。

この人を選んでいなかったら、今頃私はラクだったのだろうか。一人で気ままに暮らしたり、または別の、もっと相性の良い誰かと結婚していたりしたんだろうか。

グラスを一気に飲み干す。
浮かぶ、答えらしきもの。

私はきっと苦しんでいただろう。
彼を選んでいなかったら、私は苦しんでいただろう。
ビーチのゆらめきとざわめきの上に、トンと置かれたような彼は、明らかに異質だった。私にとっては。
彼は、私の角膜と眼球を通すと特別に浮き上がる仕組みだったのだろうか。
あんな特殊な合成映像のような人を、この人だよと丸印を付けられている人を無視して通り過ぎた後に私に残るのは、後悔だけだったろう。
「彼を選んでいたら」「彼が今ここにいたら」「彼と紡ぐ人生はどんなだったろう」
そんな呪いを自分にかけ続け、自分自身を縛りつける未来だけだったろう。

         ∇∇∇

今私は、彼と私の人生を観ている。

二人の乗る車はこんな形をしているとか、
二人の子供はこんな声をしているとか、
あんなに細身だった彼が歳を重ねると肉付きが良くなるとか、
あ、それは私も同じだなとか、
二人の紡ぐ人生をこうして観ることが出来ている。
苦しみながら二人で泳いだあの暗い海の景色も、彼とだから観れた景色だ。

これを、彼を選んだ特権と呼ぼうか。
これを、正しい選択だったと言おうか。
華やかでも穏やかでもないこの結婚に、私は真っ直ぐ前を向く。


からん、と小さく音がして、私は葡萄ジュースに目を向けた。
限りなく黒に近い毒々しいその色は、あの日の深い海のようで、透明の粒に溶け合う浅瀬はうっとりするほど淡く、藤色に輝いている。



ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!