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フィンランドの歴史における女性作曲家たちの祭典/第6部:ソフィ・リテニウス

ヌップ・コイヴィスト=カーシク著(2020年9月25日掲載)

ソフィ・リテニウス(1847-1926)は、フィンランドの声楽と音楽教育の歴史において独自の役割を果たした、多作家かつ精力的な小学校教師であり、作曲家であった。

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 ソフィ・リテニウスは、トゥルクの旋盤職人であるヘンリック・リテニウスの家に生まれた。彼女の家族は、父親は熱心なアマチュアのフルート奏者、ソフィの兄のアントンは家でヴァイオリンを弾くという音楽一家であった。ソフィは禁止されていたにも関わらず、密かに彼らの楽器を試していた。女学校に通っていたソフィは、自身の家族を説得し、ついにはトゥルクの著名なピアノ教師、ヴィヴェカ・エクマン(1826-1911)からレッスンを受ける許しを得た。子供の頃、ソフィはプロフェッショナルな音楽家になることを夢見ていたが、経済的にそれは不可能であり、家族も彼女の夢に対して特段協力的ではなかった。

 19世紀末のヨーロッパにおいて、中流階級の女性が自立するには、学校の教師になるのが最も一般的であった。同時代の多くの女性たちと同様に、ソフィ・リテニウスもこの道を通り、タンミサーリでのセミナーにおいて、小学校教師としての訓練を受けた。ハミナ、ポリ、ヘルシンキのスウェーデン語圏の女子校や小学校で、歌や手芸、地理などを教え、40年近くも教師として活躍し、最終的にはヘルシンキに永住することになったのである。

 リテニウスは、自分の教育技術を向上させたいという明確な野心を持っていた。彼女は教師たちの集う国際的な会議に出席したり、海外への研修旅行を計画したりもした。彼女は多くの同業者と同様に、スイスから紹介されたエミール・ジャック=ダルクローズの運動、視唱、発声の指導法に特別な関心を寄せていた。

音楽教育のパイオニア

 教師としてのキャリアを築いても、リテニウスの音楽への情熱は失われることはなかった。1880年代から1890年代にかけてヘルシンキで働いていた彼女は、リヒャルト・ファルティンに音楽理論を学び、ヘルシンキ音楽学校の講義にも外部から参加した。彼女はさらに小学校教員のための声楽家試験を合格し、ピアノを教える傍ら、様々な楽器店に楽器の代行販売をしていた。

 リテニウスは自身の専門的な作曲技術を、とりわけ子供や青少年のためのレパートリーを作ることに費やしており、1890年代初頭から1920年代半ばにかけて、非常に多くの作品が出版されている。その中には、独唱歌曲、パートソング、遊び歌、小さな音楽劇などが含まれている。それらはしばしば愛国的な内容のものが多く(1899年に出版された《クリスマスの子供たちの祖国への祈り Lasten kotimaan rukous jouluna》など)、それらの題材も古典的な童話から美化された自然まで、様々であった。

 リテニウスのクリスマスソングは特に高い評価を得ていた。《蒼い山脈の夜 Sinivuorten yö》や、《クリスマスがやってきた Joulu tullut on》は、フィンランドにおいては今でもクリスマスの重要なレパートリーとなっている。彼女の歌曲である《われらのスウェーデンの歌Vår svenska sång》と《バルトの海 Östersjön》は、スウェーデン語話者のフィンランド人のための歌集に収録され続けている。ソフィ・リテニウスは、自作の詩とJ.L.ルーネベリザカリアス・トペリウスらの詩のどちらにも曲を付けており、後者は人気の童謡『小さなラウリ Pikku Lauri』に歌詞を与えている。

 リテニウスは、フィンランドの音楽教育の正当な先駆者と評することができる。彼女の作品は、家庭・学校・幼稚園などに向けたものであり、そこには彼女のオリジナルの作品だけでなく、その他の子供向けの歌の編曲も含まれていた。彼女の自作の歌のうち、多くはピアノの初学者に適した単純な伴奏が付けられる形で出版された。

20世紀初頭のフィンランドの家庭において、リテニウスの童謡は標準的なレパートリーであり、幾度となく印刷された。これは『子供の行進 Såttingarnas marsch』を飾る挿絵の校正刷りである。
出典:シベリウス博物館

多作な歌曲作曲家

 ソフィ・リテニウスの多くの作品は、当時の出版物でも注目されていた。彼女の作品は、ヴァセニウスやファッツェル&ヴェスタールンドなど、名のあるフィンランドの出版社によって出版されており、多くの場合、フィンランド語とスウェーデン語によって同時に出版されていた。当時の音楽批評家たちは、リテニウスの書く旋律について、よい意味で自然で素朴である、と賞賛していた。彼女の作品の教育的重要性は、そうした刊行物でも高く評価されていたのである。

 しかし、プロフェッショナルな音楽家の間では、リテニウスはオーケストラ作品や室内楽作品を書いている男性の同業者と比べて、暗黙のうちに格下の存在と見做されていた。結局のところ、彼女は「単なる」子供向けの音楽の作曲家と見られていた。例えば、B.R.というペンネームを用いた批評家は、雑誌『ヴァルヴォヤ Valvoja』において、「大抵このような歌は、音楽的に特に深い意味を持っていない」と無遠慮にも書き記している。音楽教育の分野において先駆的な活動をしていた彼女の同僚の多くも、同じように軽蔑的な態度に苛まれていた。

 こうした状況にもかかわらず、リテニウスの歌のいくつかは、彼女が生きている間に大人のプロ歌手や、アマチュアの歌い手の曲目に取り上げられた。彼女の子守唄《休め、休め、小さな友よ Ro, ro, liten vän》は特に人気となり、バリトン歌手のシグルド・エングルンドや、オスカル・メリカントの率いるヘルシンキ労働者協会の合唱団によって演奏されていた。1907年10月、歌手のエステル・ニスカ=フォルスマンがヘルシンキで「第1回子供のためのコンサート」と称された公演を開催した際にも、当然の事ながらリテニウスの音楽が取り上げられていた。

 1900年前後に、リテニウスは合唱作品や独唱曲、ピアノ作品を書こうと試みたが、これらの分野における彼女の作品の数は限定的である。彼女の最も野心的な作曲は、教育における改革者であるフレドリク・シグネウスの生誕100周年を記念して書かれた、トペリウスのテクストを用いた合唱のためのカンタータであり、100周年の日である1910年10月12日に大学の大ホールで演奏され、好評を得た。

讃美歌と教育課程

 リテニウスは1913年に教職から正式に退いたが、スウェーデン語系の小学校による協会が刊行していたクリスマス年刊誌『クリスマスの星 Julstjärnan』等に、自身の作品を発表し続けていた。1920年代初頭には、新たに2巻からなる歌集『プンパーニッケルの歌 Pumpernickelns visor』を発表している。彼女は実際に、亡くなるまで作曲を続けた。

 20世紀の変わり目におけるフィンランドで、遊び歌や校歌を作曲していたのは、決してリテニウスだけではなかった。彼女のような活動の進路は、同僚のエディス・ソールストレムやリリ・トゥーネベリほかの作曲家たちのような、学校の教師でありながら童謡を作曲していた者たちと多くの点において類似している。リテニウスはこうした同僚の存在について親しい関係にあったことは間違いないだろう。彼女の同僚であるエレン・ネルヴァンデルによって書かれたテクストをもとに、リテニウスが音楽を付けていることが知られており、またネルヴァンデルも同様に、彼女が編集し、出版した歌曲集の中に、リテニウスの作品が含まれているのである。

 残念ながらソフィ・リテニウスは世に埋もれてしまったが、彼女の歌のいくつかは、クリスマスだけでなく、今でも歌い継がれている。彼女の書いた歌や歌遊びは、1930年代には小学校の公式カリキュラムに採用され、彼女の最も人気のある聖歌の一つである「夕べになりました、わが創り主よ Ilta on tullut, Luojani」は、フィンランド福音ルーテル教会の讃美歌に加えられている。今こそ、彼女のキャリアのすべてに対し、フィンランド音楽の歴史に加えるにふさわしい評価を与えるべき時が来たのである。

左:ソフィー・リテニウスはフィンランドの音楽教育のパイオニアで、その功績は生前から高く評価されていた。出典:『女性たちの声 Naisten ääni』1926年3月27日号(No.5-6)9ページ目
右:有名なスウェーデン語の童謡《小さなラウリ Pikku Lauri》の楽譜

(邦訳:小川至)

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こちらの記事は、ウェブマガジンである「フィンランド音楽季刊誌(FMQ)」に掲載された記事の邦訳文章です(2020年9月25日掲載)。
著者のヌップ・コイヴィスト=カーシク女史に許可を頂いた上、翻訳・掲載しております。
以下のサイトにて原文をお読みいただけます。

なお、現在、本連載記事は、上記FMQにてPart 6まで公開されています。
以下に現在公開済みの拙訳へのリンクを纏めました。


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