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フィンランドの歴史における女性作曲家たちの祭典/第5部:アレクサンドラ・ゼレズノーヴァ=アルムフェルト

ヌップ・コイヴィスト=カーシク著(2020年1月23日掲載)

作曲家、アレクサンドラ・ゼレズノーヴァ=アルムフェルト(1866-1933)は、サンクトペテルブルクにおけるフィンランド人コミュニティの一員であり、自身のキャリアをフィンランドの外側で築きあげた。彼女の生涯と作品を概観すれば、我々の音楽史に対するコスモポリタンの持つ特徴への理解を深め、20世紀への変わり目におけるサンクトペテルブルク、バルト海沿岸における見地も与えてくれる。

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 アレクサンドラ・ゼレズノーヴァ=アルムフェルトはフィンランド音楽の歴史上では無名の作曲家である。彼女は有名な貴族階級の家庭の出であり、彼女の故郷の知識階級の間ではある程度の認識を得ていた。

 アレクサンドラ・アルムフェルトは1860年代にトゥルクにてヴラディミール・(マウリッツ・)アルムフェルトの一家に生まれた。正確には彼女が生まれたこの場所と時期は、資料によってそれぞれ異なっている。この記事に記載されている情報は、最も信頼性の高い情報源であるフィンランドの貴族一覧(Finnish Calendar of Nobility)からのものである。父親の公務のために家族はサンクトペテルブルクに永住し、そこでアレクサンドラは育てられ、教育を受けた。若い貴婦人にとって、プロフェッショナルの作曲家や演奏家を職業とすることは推奨されなかったが、彼女は高い社会的地位のおかげで、芸術における学習を高度なレベルまで追求する機会を得ていた。

サンクトペテルブルクの真っただ中で

 アレクサンドラ・アルムフェルトの家族は政府機関のエリートに属していた。彼女の曾祖父は有名なグスタフ・マウリッツ・アルムフェルト総督であった。その家系の繋がりによって、彼女はすぐにロシア帝国におけるコスモポリタンな都市における知識階級の中に入り込んでいった。彼女の幅広い言語能力と広範囲に渡る教養は、作曲家としての才能に加え、彼女が上流社会で自身の居場所を確保する助けになったはずである。家族の記録によると、アレクサンドラ・アルムフェルトは徹底的な言語教育を受けており、フランス語、ドイツ語、スウェーデン語、ロシア語、さらにフィンランド語とポーランド語を操れたということが見て取れる。彼女は音楽だけでなく、絵画や詩といった芸術も親しんでいた。

 1890年代初期には、アレクサンドラはミリイ・バラキレフが率いる「ロシア五人組」あるいは「力強い集まり」として知られる作曲家グループを取り巻く、サンクトペテルブルクを中心とするサークルに及んでいた。いくつかの資料では、彼女がアントン・ルービンシュタインと作曲を学び、ニコライ・リームスキイ・コールサコフにも精通していたことを示している。この頃に彼女は、主に独唱歌曲やピアノ独奏による性格的小品などの自身の作品を発表し始めている。その後に、彼女は自身の作品の少なくとも1つをバラキレフに捧げた。

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右端に位置するアレクサンドラ・アルムフェルトの夫、ウラディミール・フェオフィラクトヴィチ・ジェレズノフ(1863-1920)はウラル地方のコサックの生まれであり、自身の故郷の伝統音楽に情熱を傾けていた。1910年に撮影されたこの写真は、サンクトペテルブルクの冬宮殿の外でパレードを行っている帝国警備隊におけるコサック連隊を、皇帝ニコライ2世とロシア皇太子のアレクセイが観閲している様子を示している。
出典:「写真で見るロシアの歴史」データベース

民謡蒐集家、映画館のピアニスト、ピアノ教師

 アレクサンドラ・アルムフェルトは、1890年代半ばにロシアの将校ウラディミール・ジェレズノフと結婚した。彼は芸術や科学にも興味を示しており、とりわけロシアの民俗音楽を偏愛していた。そのため、この新婚夫婦はウラル地方のコサックの民謡を蒐集する計画に乗り出し、アレクサンドラの出版社であるツィンマーマンは、20世紀初頭に彼らの調査結果を編集し、その選集を出版した(ウラル・コサック小品集 Пѣсни уральскихъ казаковъ)。結婚し子供を設けても、アレクサンドラの創作意欲は衰えることはなく、一定のペースで音楽を書き続けていたという。

 ジェレズノフ家を含むサンクトペテルブルクに住むすべての人々の生活は、第一次世界大戦、一連の革命、そしてロシアの内戦によって一変してしまった。アレクサンドラ・アルムフェルトは、これらの戦争で夫と4人の息子全員を失ったとされている。白軍に与する将校の妻であった彼女は、新たに政権を握ったボリシェヴィキに好まれる存在とは言えなかった。しかし、彼女は多くの女性の同僚と同じように、映画館のピアニストやピアノ教師として働くことができ、それにより彼女自身と娘を養うことができた。

 混乱した政治情勢と低所得にも関わらず、アレクサンドラ・アルムフェルトは居を移すことはなかった。彼女はサンクトペテルブルクに残り、その後1933年にレニングラードで亡くなった。

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アレクサンドラ・アルムフェルトが自身の故郷であるサンクトペテルブルクを好んでいたのは明らかである。写真は1899年のネフスキー大通りにある有名なアニチコフ橋の歩行者を示している。
出典:「写真で見るロシアの歴史」データベース

ロシアのロマンスの伝統に包まれて

 作曲家として、アルムフェルトは主にロシアのロマンスの伝統を伝える者として知られている。彼女の残された作品の中には、独唱歌曲、性格的小品、室内楽作品、メロドラマが含まれている。彼女の孫によると、彼女は子供向けの音楽や教育的作品にも特に興味があったそうで、その作品群にも含まれていたという。

 アルムフェルトの晩年のロマン主義的な様式には、彼女の同時代人の影響が見られるが、鍵盤を用いた音楽の観点から見ればショパンの影響を示している。彼女の独唱歌曲は自作の詩を編んだものだが、コンスタンティン・コンスタンティノヴィチ・ロマノフ大公らによる詩でも書かれている。

 その他多くの女性作曲家が音楽的研究の上で見過ごされてきたのと違い、アレクサンドラ・アルムフェルトの作品は1960年代以降に体系的に演奏され、また収集された。とりわけ彼女の子女であるクセニア・オセーチキナと、孫であるフセヴォロド・ルコポレフが彼女の作品の保護に力を入れていた。彼らは彼女の自筆譜を公開した―つまりそれらはレニングラード包囲戦においても失われなかったのである。2015年には、ヘルシンキの聴衆は、音楽センターにおけるソプラノのアレクサンドラ・フッタラ・ラブゾノフとピアニストのタチアナ・ヴァインシュタインのリサイタルにおいて、彼女の音楽を耳にしている。

サンクトペテルブルクにおけるフィンランドの歴史の一部

 ストックホルムにおけるラウラ・ネーツェルのように、アレクサンドラ・ゼレズノーヴァ=アルムフェルトは、フィンランドよりもはるかにその故郷の地でよく知られた存在である。サンクトペテルブルクのフィンランド人コミュニティに生まれ、ロシア民謡の蒐集に興味を持ったコスモポリタンな伯爵夫人など、フィンランドの持つ民族主義的な大作曲家たちの規範には全く適していなかった。もし彼女がサンクトペテルブルクのもう一人の影響力を持った有名なフィンランド人、エリザベス・ヤルネフェルト(1839-1929)の例に倣っていたら、彼女の状況はおそらく全く異なるものとなっていただろう。バルト・ドイツ系の家族(クロット=フォン=ユルゲンスブルク)に生まれはしたが、エリザベスはフィンランドの民族主義(フェンノマン)の哲学を採り入れ、アイデンティティを感じていた。対照的にアルムフェルトの場合においては、ソヴィエトの出現とそれに伴う国境の閉鎖により、彼女は音楽の歴史の端に追いやられてしまった。

アレクサンドラ・アルムフェルトのピアノ曲《マズルカ》とロマンス《海も、太陽も、波も》が視聴可能。演奏はアレクサンドラ・フッタラ・ラブゾノフ(声楽)とタチアナ・ヴァインシュタイン(ピアノ)。

文献

フセヴォロド・ルコポレフ、エヴァ・オールストロム:『アレクサンドラ・ゼレズノーヴァ=アルムフェルト―スウェーデンにルーツを持つロシア人女性作曲家 Alexandra Zheleznova-Armfelt – rysk tonsättarinna med rötter i Sverige』1993年1月、63~83ページ、スウェーデン音楽研究ジャーナル Svensk Tidning för Musikforskning(作品目録と、ロマンス《あの夜を覚えていますか Помнишь вечер》の楽譜を含む)

エヴァ・オールストロム:『19世紀のスウェーデンにおけるブルジョワ階級の女性による作曲活動 Borgerliga kvinnors musicerande i 1800-talets Sverige』1988年、博士論文、イェーテボリ大学

(邦訳:小川至)

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こちらの記事は、ウェブマガジンである「フィンランド音楽季刊誌(FMQ)」に掲載された記事の邦訳文章です(2020年1月23日掲載)。
著者のヌップ・コイヴィスト=カーシク女史に許可を頂いた上、翻訳・掲載しております。
以下のサイトにて原文をお読みいただけます。

なお、現在、本連載記事は、上記FMQにてPart 6まで公開されています。
以下に現在公開済みの拙訳へのリンクを纏めました。

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