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フィンランドの歴史における女性作曲家たちの祭典/第3部:ラウラ・ネーツェル

ヌップ・コイヴィスト=カーシク著(2019年8月9日掲載)

作曲家、ラウラ・ネーツェルは当時、著名な音楽家であると同時に、慈善家としても讃えられていた。フィンランド東部のサヴォ地方で生まれ、ストックホルムでその生涯を送った彼女は、この地で多作な作曲家として、またさまざまな慈善団体における旺盛な活動家として知られるようになった。

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 ラウラ・ネーツェルは自身の生涯のほぼすべてをスウェーデンで過ごしたが、彼女のルーツは当時のロシア帝国におけるフィンランド大公国にあった。彼女は1839年に、ランタサルミ(訳注:フィンランド東部、ヘルシンキより北東に約270kmの位置にある町)に住む貴族で高級役人であるゲオルク・フレドリク・ピストレコルスの一家の内に生を受けた。母親は生後わずか数ヶ月で亡くなり、その後すぐに家族はストックホルムに移ることとなった。

 スウェーデンの首都では、名家の娘が音楽を学ぶためには優れた環境が整っていたが、一方でプロフェッショナルな音楽家としてのキャリアを求めることは不適切とされていた。 ラウラ・ピストレコルスは、ピアノと声楽の個人レッスンを受けていた。彼女は幼い頃から音楽に情熱を注いでおり、10代の頃には既にオーケストラのコンサートでピアノのソリストを務めるほどであった。

 1866年、この若きピアニストは医師であるヴィルヘルム・ネーツェル博士と結婚したが、結婚生活と家事、そして子育ては音楽を諦める理由には決してならなかった。1870年代から、ラウラ・ネーツェルはピアニストとしてだけではなく、作曲家としても注目を集め始めており、当初は独唱歌曲と合唱作品を書いていたが、そのうちに室内楽作品、さらにはオーケストラ作品へと作曲の幅を拡げていった。

 彼女の女性の同僚の多くと同じように、ラウラ・ネーツェルもペンネームを持っており、「N.ラーゴ」の名のもとで作品を出版していた。女性の作曲技術の専門性に疑問を持つというような激しい性別への偏見があった時代において、これはいわば、それらの作品を音楽的内容によって判断してもらうための方法であったことを意味している。こうした状況を乗り越えて、ネーツェルはオーケストラや合唱のコンサートで自身が指揮を振ることで、彼女の時代に強いられた性別的役割に挑んでいった。1890年代初頭には、スウェーデンの定期刊行物『イドゥン Idun』に掲載された女性問題に関する熱烈な記事にも見られるように、彼女は北欧の女性権利運動の先駆者として尊敬されるモデルとなっていた。

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ラウラ・ネーツェルの牧歌的な小品は、20世紀の転換期にヨーロッパでも人気を博していた。 画像はネーツェルの《子守歌》作品59 (1896)の表紙。
出典:IMSLP

  彼女は幼い頃から作曲をしていたと語っているが、作曲家としてのキャリアが最盛期を迎えたのは1870年代から1890年代であった。ストックホルムのヴィルヘルム・ハインツェに作曲を学んだ後、彼女はパリに移り、オルガニストであり作曲家のシャルル・マリー・ウィドールに師事した。彼女の作品の多くは、20世紀の転換期にフランスで演奏・出版されるなど、パリは彼女にとって国際的なキャリアの中心地となった。時が経つにつれて、例えば彼女がフランス音楽の定期刊行物であるル・モンド・ミュジカルのストックホルム担当の記者となったように、彼女はフランスとスウェーデン間における音楽の特使のような存在に代わっていった。

 19世紀の終わり頃、ネーツェルは合唱とオルガンのための《スタバト・マーテル Stabat Mater》といった大作で注目を集めていた。彼女の室内楽作品と独奏作曲もほぼ同時期にフランス、ベルギー、ドイツ、ルーマニアで好意的な注目を集めている。音楽誌面において、彼女はしばしばフランスの伝統と同一視されていたが、実際に彼女の流れるような和声と半音階的な書法がこの意見の裏付けとなっている。現代の聴衆は、北欧の清々しい「フィヨルド」の響きも聴き取っている。彼女は幾度となくエドゥアルド・グリーグと比較されており、実際にいくつかの記事では誤ってノルウェー人と表記されていた。

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マリア・ロール(1801-1875)が1863年に描いた、ピアニスト・作曲家のラウラ・ネーツェルの肖像。
出典:スウェーデン国立博物館

音楽と慈善事業

 ラウラ・ネーツェルのスウェーデン王室との関係は、彼女のキャリアにおける興味深い内容である。彼女の夫が王室の女性たちに随行する医師であっただけでなく、ラウラ自身もスウェーデン王オスカル2世が私的に開催していた歌のソワレに積極的に関わっていた。彼女は王の記した詩を編纂した、語りとオーケストラのための《交響的適合 Adaptation symphonique》と題したメロドラマも出版している。彼女の書いた二重唱曲《蒼い洞窟 Blåa grottan》も、テノールの歌唱に興じていたこの王に捧げられたものである。

 ネーツェルの上流階級という背景は、彼女を音楽だけでなく慈善活動への参加へと導いていった。彼女は子供のための病院や、女性の避難所の創設者であった。また彼女は、ストックホルムのスカンセンに設立された野外博物館の最初期の支援者の一人でもあった。

 彼女は1892年から1908年にストックホルムで土曜の夜に開催した「労働者のためのコンサート arbertarkonserter」においてこの2つの情熱を結び付けた。25オーレという手頃な価格のチケットと共に、フィンランドで人気のある「フォーク・コンサート」のような教育的な役割も果たしていた。彼女の広範囲にわたるネットワークを通して、ネーツェルは当時最高の演奏家たちに参加させることができたのである。

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ラウラ・ネーツェルはスウェーデン王室と密接に関係していた。彼女は熱心な歌い手であったスウェーデン王オスカル2世のために、ソプラノとテノールの二重唱曲《蒼い洞窟》作品43を書いた(そして献呈した)。
出典:Levande Musikarv 

音楽家、作曲家、社会活動家

 ネーツェルの生涯は、20世紀の転換期における女性作曲家がいかに幅広く多様なキャリアを持っていたかを示している。彼女は多作な作曲家であるだけでなく、コンサートの企画、専門的な定期刊行物への音楽についての執筆、演奏、指揮をしつつ、社会活動にも積極的に参加していた。ストックホルムの知識階級の一員として、彼女は様々な文化事業に貢献する機会を持っていた。

 一方で、上流社会の女性や妻の生活は制限されたものであった。ネーツェルは未婚、あるいは彼女より裕福でない自身の一部の同僚と違い、音楽家として生計を立てることはできなかった。それにもかかわらず、彼女のスクラップブックに作曲を行う女性の名前が頻繁に現れる(その名をいくつか挙げると、ポーリーヌ・ガルシア=ヴィアルドテレサ・カレーニョなど)ことは、この男性優位の分野において、彼女がいかに幅広いネットワークから援助を受けていたかを示している。

 ネーツェルはストックホルムにほぼ生涯を通して住んでいたため、その名はフィンランドよりもスウェーデンでよく知られている。彼女の音楽は、実際に19世紀末にそうであったように、この国でもっと演奏されるべきである。彼女は自身のランタサルミのルーツを決して忘れることはなかった。例として、1887年に彼女はヘルシンキのムントラ・ムシカンテル男性合唱団 Muntra Musikanter に3つの合唱曲を捧げている。

 ネーツェルがフィンランドよりもスウェーデン的であったかどうかという問いは重要ではない。むしろ、19世紀後半の音楽生活において、彼女のキャリアを、国家、文化、言語の境界がいかに流動的であるかを示す良い例と考えるべきである。

※冒頭の写真:ラウラ・ネーツェル、出典:スウェーデン音楽劇場図書館アーカイブ

ヴァイオリニストのミルカ・マルミとピアニストのティーナ・カラコルピが、アイネス・チェチュリンの作品を、リサイタル「女性とヴァイオリン」シリーズ第6回「ロマンス」(2019年8月11日にフィンランドのエスポーにあるガッレン=カッレラ美術館で開催)で演奏予定である。このリサイタルは、スザンナ・ヴァリマキが主催する。

ミルカ・マルミとティーナ・カラコルピによるネーツェルのヴァイオリンとピアノのための作品の演奏はこちらから視聴可能。

2020年12月8日の「フィンランド音楽の日」には、ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団が、ラウラ・ネーツェル、エディス・ソールストレム、ヘルヴィ・レイヴィスカ、オウティ・タルキアイネン、アンドレア・タッローディ、モーツァルトの音楽を収録したコンサートをストリーミング配信しました。コンサートの映像はこちらから視聴可能。
(訳注:原文では既にリンク切れ、同楽団のYouTubeチャンネルによるアーカイブ配信動画にリンクを切り替えています。)

文献

Katherine, Powers:「階級、ジェンダー、業績―19世紀のスウェーデンにおけるラウラ・ネーツェル」、『ミューズの捜索―ウィリアム・F・プライザーに捧げるエッセイ』、 Forney, Christine K. & Smith, Jeremy L., Hillsdale共著、ニューヨーク、ペンドラゴン・プレス出版、2012年、271~284ページ

エヴァ・オーストレム:『19世紀スウェーデンにおける中産階級の女性による作曲活動』、博士論文、音楽学の著作物部門15 Skrifter från Musikvetenskapliga institutionen 15, エーテボリ大学、1987年

ラウラ・ネーツェルに関する詳細情報

スウェーデンの音楽遺産ウェブサイト「Levande musikar」掲載の作品カタログと簡単な略歴

スウェーデン音楽演劇図書館 Musik- och teaterbibliothek のウェブサイト掲載の作品群

国際楽譜ライブラリープロジェクト掲載の作品群

ラウラ・ネーツェルに関する4部構成のラジオ番組(P2 Dokumentär, Swedish Radio, 以上スウェーデンのラジオ放送局

ラウラ・ネーツェルの作品による
Spotify プレイリスト

(邦訳:小川至)

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こちらの記事は、ウェブマガジンである「フィンランド音楽季刊誌(FMQ)」に掲載された記事の邦訳文章です(2019年8月9日掲載)。
著者のヌップ・コイヴィスト=カーシク両女史に許可を頂いた上、翻訳・掲載しております。
以下のサイトにて原文をお読みいただけます。

なお、現在、本連載記事は、上記FMQにてPart 6まで公開されています。
以下に現在公開済みの拙訳へのリンクを纏めました。

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