『ひきこもりの手記』第0章断章0について

常に私は嘘吐きである。此の手記も虚構である。冒頭にこのような忠告は無作法だが理由がある。私は此処に過去の犯行を記録した。其のことについて読者に騒ぎたてられると面倒だから忠告したのだ。犯罪とは殺人である、しかし、手記の中心に殺人はない、数十年かけて考えたことを、自分の生涯と絡めながら発表したい、其れが動機であり、殺人自体を伝えたいのではない、だから、当手記は決して『殺人鬼の手記』ではないのである。

ひきこもりの手記

これは、「第0章 凡庸な人間には最後までよめないまえがき」の断章0である。
前提として「嘘吐き」「虚構」
手記の中心ではない「殺人」について騒ぎたてられないための「忠告」
「考えたこと」(思想)を「自分の生涯」とともに書きたいのが動機 「『殺人鬼の手記』」ではない


ここ(だけ)を読むと、著者は重要な行為を少なくとも二つしている。
つまり、「嘘」をつくことと「殺人」
この二つは、多くの宗教や法律で重く大きな罪とされる。
言葉で行いうる最も基本的で重い悪行が「嘘」
行動で行いうる最も基本的で重い悪行が「殺人」
と言えるかもしれない。

『地下室の手記』は、このように書き出される。

この手記の筆者も『手記』そのものもむろん、架空のものである。(ドストエフスキー名義)
わたしは病的な人間だ……わたしは意地悪な人間だ。わたしは人好きのしない人間だ。これはどうも肝臓が悪いせいらしい。もっとも、わたしは自分の病気のことなど、これっからさきもわかっていないし、それに自分の体のどこが悪いのか、それさえ確かなことはわからないのだ。
書かれた時代がちがうのもあって、『地下室』のほうは比較的マイルドな表現だ。「本来の筆者」が「手記の筆者」を「架空」だと明言し、その「手記の筆者」は自らを「病的な人間」、「意地悪な人間」、「人好きのしない人間」、「肝臓が悪い」が、自分ではどこがどう悪いのか「確かなことはわからない」と語っている。

地下室の手記

一般的に、手記に自分のことを書くことは、容易に告白と結び付けられると思われる。『ひきこもり』も、『地下室』も、一見すると何らかの「告白」にみえる。自分のことを書きたいようにみえる。
しかし、「嘘吐き」とはいえ、『ひきこもり』の言い分を閲すると、少なくとも要点はそこではなく、「考えたこと」、すなわち思想を自らのエピソードとともに書き尽くしたい、と思われる。
サルトルの『嘔吐』は、告白よりも思想の表現をめざす意味で、『ひきこもり』と近しい間柄かもしれない。
カミュの『異邦人』は、殺人を扱いながらも殺人が中心主題ではない点で、近しい間柄かもしれない。
では、この作品は、実存的な文学なのだろうか。実存的なら、なぜ自らが「嘘吐き」であるという宣言を冒頭に置くのか。この問いは、ここでひとまず。

実存的かどうかはともかく、「嘘」である旨を冒頭に置くということは、いくら現代の読者や社会が作者を信頼しなくとも成り立つからといって、言葉でつくられたものである以上、矛盾した記述である。これが手記のかたちをとっているなら猶更だ。

ところで、作者は、三つめの罪をあえて犯していると言うことができると思われる。それは、二つの罪より微妙で、わりと見落としやすい罪だ。
それは、

当手記は決して『殺人鬼の手記』ではないのである。

ひきこもりの手記



という記述にまつわる罪である。
まず、一般的に言って、思想を伝えた手記なら、殺人は後景に引くのだろうか。政治家や運動家ならば、思想で自らの殺人を正当化し、殺人鬼と呼ばれることを免れうるかもしれないが、どうやら作者は「ひきこもり」であり、そのような魂胆でこの手記を書いているとは考えにくい。
つまり、殺人が真であるなら、これは『殺人鬼の手記』とみなされるのが妥当なのだ。
また、殺人が嘘であるなら、この手記は確かに殺人鬼の書いたものではないが、しかし殺人を犯したと「嘘の告白」することもまた、ひとつの罪ではないだろうか。控えめに言っても、シンプルなモラルからいって、ひどい嘘の部類に入るのではないか。
つまり、この記述はひとつのパラドックスだ。
言うまでもなく、この断章0自体がパラドックスに満ちている。だいたい、断章「0」とはなんだろうか。この断章は、作品(手記)内でも特異な位置を占めているだろう。近しい、似たような、同じような記述は作品内に多くあるものの、この断章は、他の部分を無化し破綻させかねない危険な部分であり、一見、全体を説明するようにみえて煙に巻き、否定し、逆転させている。端的に言ってみれば、この断章によって全体が滑稽になったり、極端にシリアスになりかねない。
常に作者/読者が緊張を強いる/強いられるダモクレスの剣が、断章0なのだ。
その緊張は、「嘘」、「殺人」、そしてそれらを組み合わせた「パラドックス」の三つの悪徳によって成り立っている。
いったんこのように書き出した作者は即座に筆を折って書くことをやめるか、延々と書き続けなければならないだろう。
いったんこのような書き出しに出会った読者は、飽きれてそのままページを閉じるか、もしくは興味のままにとにかく読んでいくしかないだろう。

ひょっとしたら、このような宙吊りの、緊張した、挑戦的な、作者/読者双方に危険な賭けを強いる記述こそが、手記の中心に「殺人」という行為ではなく「嘘」を吐いてでも書きたい思想があるという唯一の証明なのかもしれない。直截な行為は嘘を好まず、練られた思想は虚実の皮膜の上でしか表しえないだろうからだ。

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