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"見たい景色"を見ている私を見たい。

相変わらず、寝落ちの頻度に自分でも驚きを隠せないけれど日が変わる直前、この時間に目を覚ましたのが奇跡。

「noteの時間だよ」と言われた気がして、急いでパソコンを立ち上げた。

noteを開設して1ヶ月と少し、続けてきて思うのは自分の中の不安が継続を選んでいる気がする。めんどくさくても眠くても書きたい。自信がないから毎日向き合いたい。

始めたきっかけは尊敬する方からのすすめ。「500文字くらいのストーリ挑戦しませんか?」のひとこと。

「500文字!?」

Twitter140文字ですら苦戦している私が書けるだろうか?いや、きっと無理だ。と思いながらも、書いてみたいと素直に思った。

私にできるのか見てみたかった。

「書いてみようかな?書いてみたいかも」

ここが、noteの始まり。

現在1年目のTwitterは、弱い自分と戦える”自分らしさ”を見つけられず、何度も止まってしまっていた。有益性もなければ、自己開示も上手くできない。

まだまだ止まる理由は他にもあるのだけど、自分の文章に自信が持てず周りと比べ怖気付いてしまう。"私でなくても"思考が先行して「弱すぎる」「文才がなさずぎる」と否定を繰り返し全く自分と向き合ってこなかったよう思うし、その1年が今を物語っていると思う。

「ぐずぐずするくらいなら、辞めてしまえ」と、もう1人の私が辞めさせようと何度も背中を押し、「こんな弱いまま続けていても、成長には繋がらないだろし行き先が曖昧なツイートは前が曇りすぎている」と脳内で何人もの私が回想劇を繰り返していた時、岡本太郎さんの言葉が目に止まった。

「もしきみが自分は未熟だと悩んでいるとしたら、それは未熟であることをマイナスに考えている証拠だ。自分は未熟だから、と消極的になってしまったら、未熟である意味がなくなってしまうじゃないか」。それでも当時、焦ってしまうことの方が多く最終の口癖は、いつも「Twitter向いていない」だった。

自分の未熟さにすぐ足が止まり、止まってしまっている事だけが気になって"悩み"が悩みに変わる。あゆみを辞め、考えることを辞た時ほど自分を見ないし解決しないままポンコツ感丸出しのTwitter生活を過ごしてきた。

(踏みとどまれたのは、他でもない1年間いつも私のTwitterを気にかけ支えてくれた方々がいたから。本当に感謝です。)

今noteを始めて岡本太郎さんの言葉を改めて思いだした。noteを描くことに慣れ始め、この時間が1年後を作っているとしたら未熟さはさほど気にならなくなってきたように思う。

上手いとか下手とかジャッジをすれば世に出せるような文章ではないし、憧れには程遠い現時点。

それでも書くのは100点満点の完璧なnoteではなく、自分の成長の対する気持ちが今は100点だからかもしれない。この凸凹な日々のノートが1年後私を大きくしてくれると信じている。

とにかく私は、継続した1年後をみていたいのです。

いや1年後でなくてもいい、みたい景色をみている私をみてみたい。




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