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SNSは良くも悪くも世界を狂わせた

私は90年代生まれの20代後半であるが、ある意味影響をもろに受ける世代として、SNSが産声を上げたそのころから今に至るまでを身近に観察し続けてきたと思う。
そして近年、私はそのSNSというものがビジネスにもどんどん介入するようになり、そして人々の生活の中心にもなりつつあることで、恐ろしい狂気にもなりえるということを思い知らされる事件や、自分自身の心境の変化を感じるようになった。
昨今の事件では、テラスハウスの木村花さん、そしてつい先日の三浦春馬さんの自殺があった。二人の自殺理由は明確にはされていない。しかし、そこに「見えない第三者」からの圧迫=誹謗中傷があったということだけは、誰にでもわかることだと思う。
そしてこのようなことが立て続けに起こる世界は、もうすでにどこか狂い始めているのかもしれない、と私は思い始めた。
ここに私の経験も含めたSNSのここ20年の変化を書き留めてみようと思う。

1.SNSが生まれたころ 2000年代

私が初めて、SNSを使ったのは私がおそらく14-15歳ごろのことだったと思う。当時はFC2ブログや忍者ブログといった個人ブログやホームページを設立するのが流行りであり、絵を描くのが当時から好きだった私はブログやホームページを通して自分の作品を発表したりするのに活用していた。それから2ちゃんねるなどの匿名性の掲示板サイトも非常に活発だった。
ある意味、「いいね」というような評価を身近に感じたのは周囲の人たちと比べても早かったかもしれない。私はそのころPixivというイラスト交流サイトを活発に利用していて、そこでは投稿する絵に匿名で評価がつくからだ。
でもその頃はまだ、「生活のすべてをさらけ出す」ような意味でのSNSではなかった。自分の趣味や興味のあることに対する情報交換や、匿名同士で交わることのない交流をするだけで、誹謗中傷につながることは少なかった。
まだ、現実とSNS上の住みわけが出来ていた時代だった。

2.2000年代後半-実際のコミュニティとの連絡ツールとしてのSNS

2000年代後半になり、やがてSNSは現実のコミュニティを更につなげるためのツールと変化していった。その理由として、携帯電話の発展が言えるだろう。2000年代前半に比べ、携帯の性能が上がったおかげで、インターネットを自由に携帯からも使えるようになった。そのためいつでも気軽に、友達と触れ合えるようなSNSが世界的に増加したのだ。
例えば、Twitter・Facebook・YoutubeなどのSNSのすべては創業が2004-2006年代の間である。そして人々に定着していったのは恐らく2010年直前程度。
また、日本の若者の間ではMixiという独自のSNSが流行していた。これは主に学生同士のコミュニティのようなもので、機能性はほぼFacebookと同じだが、登録をしないと情報を全く見れないためFacebookなどよりも閉鎖的なイメージがあるSNSだった。
2000年代後半に中高生であった私は、以前から使っていたブログに加え、SNSはミクシィだけを使っていた。
今思えばあのSNSはすごく嫌いだった。私はあまり楽しい高校時代を送っていないので、当時は家に帰っても高校の同級生が何をしているのか情報が嫌でも目に入るのが辛かった。ミクシィはそういう「ヒエラルキー」の見せ合い場であり、仲良し同士の非公開グループがあったり、友達数・紹介文数が多いほど「イケてるやつ」みたいなところもあったりして。常にストレスでしかなかった。大学に入ったとたんにミクシィのアカウントを削除したのを覚えている。
私が明確にSNSにストレスを感じ始めたのはそのころだったと思う。


3.2010年代 今のSNS時代の初期-スマートフォン上での発展

私が高校を卒業するかしないか位の時に、徐々に周囲でスマートフォンを使う人が増えてきた。私は大学に上がってからIphoneに変えた。
スマホが生まれてから、更にSNSの利用は簡単になり、「アプリ」としてめざましい発展を遂げた。2010年にInstagram、2011年にはSnapchatなど、文字ではなく画像や動画媒体が主になるSNSも発展してきた。
またこのころから、メッセージのやり取りも電話番号やメールアドレスを介したものではなく、アプリの利用が主体となり始めた。
世界的にはWhatsApp、Facebookのメッセンジャー等。日本ではLINEが一強で2010年代から普及している。
私の感覚では、2012-13年程度までは、メッセンジャーもアプリも併用して利用していたが、2014年以降はほぼLINEが連絡手段の主体となった。

このころから、10代の間ではLINEによるいじめ問題なども起こり始めた。
LINEのグループで仲間外れにされたり、言葉の暴力を日々浴びせあれるなど。これによる自殺のケースなども見られるようになった。
私はこの類のニュースを見た際に、「自分が中高生の時にLINEが無くて本当に良かった…」と思ったものであった。なぜなら、LINEやスマホのアプリなどが当然にはびこる時代なら私がミクシィを使っただけで感じたあの「窮屈さ」はとんでもない物だっただろう…と思うからだ。今何をしているかのシェアや友達との「グループ」での連絡が当たり前に出来る…というのは良いことでもあるかもしれないが、私のようなたまには社会から小休憩が必要な人間もいるだろう。それをコントロールできない10代のうちに、休みなく外からの情報に圧倒され続けるのは本当にストレスがたまるだろうなと感じていた。
大学生だってそういったいじめを起こしかねないが、私は美術大学で多くの人が個人主義で周りをあまり気にしない人ばかりだったのでとても助かった。

4.2015年以降― 大人も病むSNSが世界を回す時代

そして現在。Iphoneなどのメジャーなスマホの技術も定着したころからは、アプリの機能性は最高潮に達している。何気ない毎日の一瞬を動画や画像として投稿することは、今や文章の投稿よりも遥かに発展している。
例えば、Instagramには「ストーリー」という機能が追加された。24時間以内に消える呟きのようなシステムだ。これにより人々はより気軽に自分の日常を世界に発信するようになった。それに似たものとして、今はもうないがVine(6秒間の動画だけを上げられるSNS)や、現在でいえばTikTokなどもどんどん人々の生活に密着しつつある。今は完全にSNS飽和状態だ。
私はSNS自体は嫌いではない。というのも私には特別な理由がある。2016年からイギリスに移住したためだ。日本に住む家族や友人の近況を知れる・いつでもすぐにつながれるという意味では非常に画期的なツールであると思う。SNSがあるおかげで、彼らとそこまで距離を感じずに生活できるのはありがたい。でも、もし日本に居たら、極力触れないようにしていたかもしれない。なぜなら、もともといつでも連絡が取れる人々の情報を常に取り入れていたいとは思わないからだ。
そもそも私は興味が無い人は知人でもフォローしないし、情報公開もしない。それで無駄にストレスをためるような結果になってしまっても仕方がないから。このくらいの割り切りが出来ていなければ今のSNS時代をストレスなく乗り切ることは難しいと思う。

4.SNSによって世界は境界線を失ってきている

今やSNSは、一般人のみならず、著名人や企業なども利用するようになった。
それと同時に、最近は芸能人や著名人の自殺などが世界的に目立つようになった。韓国や日本では特にそのような自殺が多く、そしてその理由の多くが「ネット上での誹謗中傷により心を病んでしまったため」といった内容が多い。
もちろん昔にも、誹謗中傷に悩まされた芸能人は多かったに違いない。でも今彼らに逃げ場がなくなっているのはなぜなのだろうか?
最近は「炎上」という言葉が非常に多くみられるようになったと思う。これはもちろん、炎上する場=SNSがあるからだ。
誰もが簡単に匿名で、名前を後悔している個人に暴言や批判をコメントできる時代になってしまった。そしてその匿名性・または自分自身ではなくコメントでという手軽さによって、誰もがその相手に対して非常にストレートで、時に凶暴な言葉を浴びせることに抵抗がなくなってしまっているのだ。
20-30年前の著名人はもちろん誹謗中傷を浴びることもあったであろうが、それはメディアを通してだったり、酷いときは手紙や事務所への電話といった手段もあっただろうが、それには手間がかかるため恐らく今ほどに多かったとは思えない。
だが今は、SNSというものによって人々がボタン一つで著名人に暴言を送れるようになった。そしてその暴言を送る人というのは、昔のように必ずしもその個人に興味がある人たちばかりではない。その人が引き起こした事件に興味があるだけで、野次馬のようなものだ。そんな人たちが心無い言葉をボタン一つで送れてしまう時代が来てしまったのだ。
これは、一昔前は芸能人というものがあくまでも、「現実に存在しても雲の上の存在」だった彼らを雲から引きずり下ろしてしまった。今は地獄から延びる手におびえながら、空と奈落の間を漂っている存在とも言える。
彼らは特別な選ばれた、人々に注目される存在であるにも関わらず、その注目が引き起こす悪意から身を守るすべが無いのだ。
そして今、メディアはそのSNS人気に乗っ取り、芸能界を更に人々に身近なものにしようとしている。それは彼らが仕事をする上で更に彼らを精神的に危険にさらしていると言っても過言ではない。
その商法の一つの結果が、「テラスハウス」での木村花さんの自殺と言えるだろう。
テラスハウスはまさに今のSNS人気に乗っ取った形のテレビ番組だった。アマチュアレベルの芸能人や一般人を主人公に、「台本のない」ドラマを楽しませるというのがコンセプトだった。
この「台本のない」というフレーズはまず、彼らがまっさらの一般人であり、ドラマ内で起こっていることは登場人物が引き起こした事実としてとらえられる。本当は、半分事実・半分脚色されている程度だったと思うが、テラスハウスの演出方法は非常に悪意があったと感じる。彼らの「ドラマチック」な部分だけ切り取り、ある程度の演出指導の上で作り出された一人一人のキャラクターがまるでその人本人のように見えてしまうからだ。
実際の人間がやっているとはいえ、あくまで「フィクション」であることを主張しなければならなかったところを、「台本は一切ない」と言い切り、完全にフィクション性を否定する。そしてすべての責任はその登場人物個人に降りかかる。これはあまりにも残酷なやり方だったのではないか。
そしてテラスハウスのメンバーは有名人でもなく、あくまでアマチュアだったのだから、そういった誹謗中傷に対してどうやって身を守るかなども知らなかったに違いない。これは今のSNS時代で、史上最悪の環境と言える。
テラスハウスは、劣悪な環境を可視化したモデルとして挙げられるが、このようなことに悩まされている著名人はきっとたくさんいるのだろう。そのうちお互いに暴言の投げ合いになり、どちらがつぶれるかまでの泥仕合となっていく。
著名であればあるほど、自分から始めなくてもその標的にされやすい。
三浦春馬さんの自殺の理由は明らかにされてはいないが、もしかしたら彼もそういった苦しみを割り切って消化できない、ごくごく普通の若者だったのかもしれない。

このように、人々は今まで超えられなかった世界と世界の境界線をSNSによって超えつつある。もちろん、私は世界の人と簡単に繋がれるというのは美しいことだと思う。たとえば私は言語学習のためにHelloTalkという言語学習のためだけに特化したSNSアプリを利用しているが、いつでも簡単に誰かにアドバイスが聞けたりするのは非常に便利だ。しかし、言葉通りの世界ではなく、芸能界や、政界、企業など。本来はそこまで立ち入るべきでない「世界」にも、どこの馬の骨とも知れない人々が簡単に爆弾を投下できる時代になってきた。これは、ある意味世界の色々な人が利益を得る機会と言えるかもしれないが、同時にすべてが混ざることによって、「カオス」を生み出しているというのも嘘ではないと思う。

私はこのSNSの発展に100%否定的ではない。先述したように、私はSNSが嫌いなわけではない。しかし、発展しきった今だからこそ、人々はモラルとマナーを考える必要がある。インターネットはもう、2000年代前半に私たちが2ちゃんねるで匿名で会話を楽しんでいた時代とは違い、現実の一部と化しているのだから。匿名なら何でも言っていい・ネットだから何でも公開してもいいというのはもう時代遅れの考え方だ。これは日常の延長線上であり、誰かとネット上で触れ合うときには、自分が現実でするように、マナーをもって接するべきなのだ。情報公開をするときは、同じように現実でするように、個人情報を野ざらしにしていい時代ではないのだ。
そして、そこに存在しているすべての個人が「現実に存在する、簡単に傷つく心を持った誰か」ということを忘れないでほしい。

芸能人・一般人に関わらず、自己防衛がカギとなる時代が来ている。




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