悟りを開けない方がおかしい
先日、ワクチンを熱心に打ってしまわれている方から、ご助言をいただきました。
「竹内は、陰謀論なんかを信じてるから、見る軸が曲がっちゃうんだ。永平寺にでも行って、座禅をしてくるといい。悟りの境地には辿り着かないかもしれないが、そういうのが大事だぞ」
ありがたいお話です。
その方なりに、心底、私を心配してくれてのご発言だと受け止めたので、これに対して激しく反論したりとか、そういうことはしません。
こんな投稿を目にしても、そんなのを持ち出して、わざわざ「熱心にワクチンを打っちゃってる方が、見る軸が曲がっているんじゃないですか?」なんて、野暮なことを言い出したりもしません。
たたただ、ありがたいと思っています。実際、その助言を受けて、近々、永平寺には行ってみようかと思っています。
しかし、「悟りの境地には辿り着かない」という部分が、妙に引っかかって仕方ありません。悟りの境地にはたどり着かないと決めつけてしまう点が、どうしても納得できなかったのです。
なので後日、こんな文章を含むメールを送りました。
悟りを開く・開かないで言えば、既に過去、悟りを開いた人がいたとされています。
死んでしまったら、元も子もないじゃないかという話ではありますが、釈迦は悟りの境地に入ったとされています。死んでしまったとはいえ、そんな2000年以上も昔の人間にできて、今の人間にできないと決めつけるのは、ただの怠慢ではないかという気がするのです。
おおげさ???
けれども、長い歴史のなかに偉人とされる人がいて、その彼らが、私たちに残しているのは、その偉業だけではなく、私たちが乗り越えるべき課題も含まれます。
イエス・キリストにしても同じです。彼も偉大かもしれませんが、その名を冠した宗教を作られてしまったらダメです。
彼らがやり残したことは、今を生きる私たちが解決していくべき課題でもあります。歴史の偉人たちは、何も偉業を成し遂げただけではありません。私たちに、解決すべき課題を残しているのです。私たちは、それを乗り越えていかなければなりません。
悟りの境地???
過去の人々がやり遂げていないのであれば、それを達成するのが、私たちの為すべきことです。しかも過去、(仮にその瞬間、死んでしまったとしても)そこまでいった人がいるというのであれば、それは心強い限りです。
私たちにできないわけがありません。あとは、生きたままそれを成し遂げるだけです。
仮に、悟りの境地なるものが、宇宙の理を知ることだとしましょう。そうだとすると、それは最先端の科学によって、だいぶ解明されてきていると言えます。
物質の最小構成要素である素粒子は「ひも」であり、その「ひも」は揺らいでいるとされています。つまり、私たちは、揺らいだ世界のなかに生きているということです。
そのことは、ゆらゆら波として存在している量子が、私たちが観測することによって粒になるという量子力学にも通じるものです。
結局、それら最先端の科学が意味するところは、私たちの宇宙が、私たち自身が観測することによって、固定化され、成立するということです。
端的に言ってしまえば、私たちの宇宙は、私たちがどうみるかにかかっているということです。
これの映像は、1940年代の日本だそうです。
例えば、この映像のなかの世界に飛び込んでいって、1940年代の日本で「私たちの宇宙は、私たちがどうみるかにかかっているのです」なんて言ったら、何かしらの宗教にのめり込んでいるか、ちょっと頭のおかしい人だと思われるでしょう。
1940年代の世界では、科学もそこまで辿り着いていないのですから、そう思われても仕方ありません。
しかし、今は違います。
捉えどころのない宗教の話ではなく、最先端の科学の話として、そんなことが語れる時代になっているのです。そのことを宗教的な表現をしたときに「悟りの境地」ということにもなりうるというだけです。
悟りの境地に辿り着かない????
冗談じゃありません。
もう人類は、その一歩手前まで来ているし、何なら既に辿り着きつつある人が出始めていると思います。そして、そう思えるからこそ、これからの時代が楽しみなのです。
悟りの境地になんて、辿り着かない方がどうかしています。
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