肉体も所詮地球の一部
今年の農業は、昨年の失敗の経験を活かして、なるべく労力をかけず、無理をしないようにしています。元々、食糧危機や物価高に備えるための農業だったので、スローライフというよりも、むしろサバイバルのつもりで始めました。結果、昨年は、かなりシンドイ思いをしたのです。
でも、今年はゆるりゆるりとやっています。そんなわけで、今年はこんなのもやっています。
何だか分かるでしょうか・・・?
正解はコレです。
そう、スイカです♪
ビー玉みたいで、めっちゃかわいいです。これが徐々に大きくなっていき・・・
今では、手のひらにギリギリ乗るくらいの大きさにまで成長しました。
それだけではありません。
遊びで、こんなのもやってみています。
蕎麦です。
河口湖で、蕎麦の栽培はまったく聞きません。しかし、今年は遊びの要素を取り入れて、ちょっと試しにやってみることにしました。
蕎麦の種蒔きは、前日にトラクターで整地したうえで、このように筋蒔きするための線をひいてきます。
この筋の部分に、種を蒔いていきます。
どうなるかは、分かりません(笑)。でもまぁ、本格的に食糧危機が起こっているわけではないですし、余裕があるうちは、いろいろ試してみようと思うわけです。
秋ごろには、結果が分かるでしょう。いずれにしても、楽しんだもの勝ちです。
一方、社会に目を向けると・・・本当にどうでもよくなってきました(笑)。最近の私は、日本の総理大臣が変わっても、「え?変わったの?」くらい,、ほとんど何もウォッチしていません(おバカですみません)。
ただ、以前、記事にもした通り、今の人類は欠陥品です。
その欠陥品である人類が、これから先も生き続けられると考えることの方が、無理があるかもしれません。
むしろ、これからの世界においては、私たちが、これまでの人類とは決別し、新しい種として「再出発」をしなければならないと思うことが重要だと思うのです。
そう考えたら、所詮、今の人類が引き起こしている事象なんて、動物園のなかの「サル山のままごと」のようにも感じられることでしょう。仮に日本の総理大臣が変わったところで、「サル山のひとつで、ボスザルが変わったの?」くらいの話になってしまうわけです。
まともに付き合うだけ、バカバカしくなってしまいます。
もちろん、今の社会が、絶望だらけなのも分かります。政府だの、グローバル企業だの、国際機関だのが、民衆の暮らしをメチャメチャにしようとしているのを目の当たりにして、平静を保つのは大変なはずです。
しかし、そんなに絶望するくらい、いろいろと真剣に調べるのであれば、「私たちは、いったい何者なのか?」という極めて根源的な問題についても、きちんと考えた方がいいと思うのです。
全然、関係のない話のように思われるかもしれませんが、こんな動画があったので紹介しておきます。
時間がある方は、動画を通しで見ていただくといいかもしれません。
この動画で、冒頭に取り上げられているのが、脳がない生物でも睡眠をする・・・つまり、睡眠は脳を休めるためだけのものではないという点です。
一般的に、睡眠は脳を休めるためと言われることが多いため、この視点は、なかなかに面白いといえます。
さらに動画では、生物というのは、根源的には、植物のように「寝ている状態」の方がデフォルトで、私たち動物が、覚醒状態で活動しているのは、進化の過程で獲得した機能であるという点が述べられています。つまり、通常、私たちが「生きている」と実感できる覚醒している状態は、生物としては、付随的なものであるということです。
個人的な話ではありますが、最近、こうした話が、妙にしっくりきます。
覚醒している時、私たちはいろいろなことを感じたり、考えたりすることができます。したがって、覚醒状態のときこそ、「自我」なるものがあるように感じることができるわけです。
しかし、根源的な意味で、私が生物として存在している状態は、睡眠中の自分にあるというのです。つまり所詮、私の存在などというのは、睡眠しているときの(ほとんど動くことがなく)半分以上が水で構成された地球上の物質という程度のものになります。
このとき、仮に動くといっても、川の水が高いところから低いところに流れるように、物理法則に従って、私の体を構成する物質が、体内で静かに動いているという程度のことでしょう。
このことをしっかり意識すると、覚醒しているときも、自分の体が、自然の物理法則に則って存在する、地球の一部に過ぎないということを、より実感することができるようになります。
そう、まさにこの動画で言われていることです。
私の肉体なんぞ、所詮、地球の一部に過ぎません。
例えば、食事などといって、さも生きている自分が、何かを食べて、「食べた、食べた」などと言っていても、所詮、地球の一部に過ぎない物質が、そのかたちを保つために、また別の地球の物質をとりこんでいるという、物質同士の現象に過ぎません。そこに美味しいだの、甘いだの、歯ごたえがあるだの、いろいろと感じるのは、私たち生物が、その物質同士の反応結果について、フィードバックをもらっているに過ぎず、物質としての自分にとっては、そのかたちを保つため、淡々と必要な食事をするということが、何よりも大切であるということです。
結局、人類を含めて、生物などというのは、そうした大自然の一部に過ぎないということです。
そして、逆説的ではありますが、そのように私たち自身に対して、「所詮、物質」という視点をもつことで、そのうえにある次元(「精神とは何か?」という問い)に気付くことにも繋がるでしょう。
意思があり、考えがあり、行動をするから、何か自然の法則からは逸脱したようなことを起こしてしまいそうにも思うかもしれません。しかし、きっとそんなことはありません。万事、水が高いところから低いところに流れるように、淡々とあるべき姿に向かって、事が運んでいるように思います。
てなわけで、あんまり難しすぎることは考えず、まずは自然のなかに飛び込んで、蕎麦の種でも蒔いてみたらどうでしょう?
せっかくですから、いろいろ楽しみましょう。結局、楽しんだもの勝ちです。
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