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【番外編①】『図書館の大魔術師』~先進地域としてのイスラームと架空の「歴史もの」~

※ 本記事は記事シリーズ「あのマンガ、世界史でいうとどのへん?」の記事です。
※ サムネは『図書館の大魔術師』1巻表紙より。


1.中世イスラーム世界の勃興

 ここまではヨーロッパ、中国という二大地域について、それぞれの中世に至るまでの歴史を見てきました。ヨーロッパの西でフランク王国の分裂を通して現代の西欧各国の原型が成立し、東ではローマ帝国の直系国であるビザンツ帝国が君臨する。一方の中国では、秦、漢、唐と中華統一国が順に代を重ねていく。そうして各地域は各々の歴史を重ねてきました。
 しかし、「世界史」を語るにはもう一つどうしても外せない勢力があります。それはかのアレクサンドロスの帝国亡き後、再び分裂状態が続いたアジアをやがて席巻することになった、イスラーム圏です。

『アド・アストラ』の記事にて、古代ローマ帝国を「アレクサンドロス帝国の分裂後に現れた大帝国」として位置づけましたものの、その記事でも言及したとおり、両帝国の支配領域には明確にズレがあります。具体的には、アレクサンドロスの帝国はギリシャから東方のアジアへと領域を広げましたが、ローマ帝国はヨーロッパを拠点としています。
 つまりアレクサンドロス帝国亡き後、アジアは一種の空白地帯になったわけですが、その後この地域を支配したのはイラン人です。アレクサンドロス帝国の滅亡がだいたい紀元前4世紀末になりますが、その約半世紀後にはこのイラン人が台頭。やがて生まれたササン朝ペルシアと言う国は、紀元3世紀ごろにはこの頃国力が傾きかけていた古代ローマ帝国と衝突、ローマ皇帝を捕虜にするほどの力を誇るようになります。

 しかし7世紀初頭、ササン朝支配領域の喉元であった今のサウジアラビア南西部で、ある男が神の啓示を得ます。男の名はムハンマド。イスラーム教の始祖です。
 新興宗教の長となった彼は、初めは迫害を受けるもののやがて信徒を拡大。彼が亡くなる頃には、軍勢と化した信徒をもってアラビア半島のほぼ全域を宗教勢力の支配下に置くに至ります。その後は選挙で選ばれた彼の後継者(カリフ)が代々指導者となり、この時代にササン朝がイスラーム勢力に飲まれ滅亡。そして5代目以降のカリフは世襲制をとるようになり、ムハンマドに端を欲した宗教団体は、名実ともに「王朝」となるのです。

 その後もイスラーム勢力の勢いは止まりません。西では中東からアフリカ北沿岸部をぐるっとまわってスペインからヨーロッパに侵入。カール大帝(誰だっけ?となった方は『ヴィンランド・サガ』の記事をご参照。) の祖父と激突してここでようやくの敗北を喫しますが、スペイン南部だけは勢力下に置くことに成功し、この後数百年ほどスペイン南部はイスラーム教圏(!)となります。
 また、この頃東欧でキリスト教圏の防波堤となったビザンツ帝国とも何度も対立。ビザンツ帝国は西欧にも助けを求め、その遠征軍である十字軍を召喚します(この第一回召喚が、まさに前回記事で紹介しました『アンナ・コムネナ』の時代です)が、これも含めて迎撃、一進一退の攻防を繰り広げます。
 また東では、『レッドムーダン』の記事で紹介しました則天武后の治世から半世紀ほど経ち、落ち着きを取り戻しつつあった唐と衝突としてこれに勝利、中国勢力の西進をストップさせます。これまでの記事でとりあげたヨーロッパ勢力、そして中国勢力に挟まれながら、両面の戦線でこの双方を抑える力がこのころのイスラーム勢力にはあったということですね。

 また、その勢いは軍事面だけではなく、文化面でも凄まじいものがありました。もともとこの地域は古代オリエント文明が発展し、またアレクサンドロスの侵略によってギリシャ文化も流入しているなど、非常に豊かな文化背景を持っていましたが、これとイスラーム・アラブ文化が融合して独自の文化が発展します。特に古代ギリシャで発展していた哲学、医学、天文学等の学問が受け入れられ、その結果イスラーム文化圏の知は、ギリシャ文明の故郷である同時代のヨーロッパを大きく凌ぐレベルの科学水準に到達。こうした当時世界最高水準の知は十字軍等における東西交流等を通してヨーロッパに逆輸入され、やがて中世ヨーロッパを幕引きする「ルネサンス」を準備するのです。
 「先進国」というと、現代では欧米や東アジアを思い浮かべがちかもしれません。しかしこの中世世界では、間違いなくイスラーム世界こそが先進地域の一つであったのです。

2.二重の意味で「歴史マンガ」である『図書館の大魔術師』

 ・・・とはいったものの、本記事シリーズとしては困ったことに、この時代のイスラーム世界を舞台にした作品というのはなかなか見当たりません。これはもちろん私のマンガ知識不足が一番の原因ではあるのですが、イスラーム文化が日本人にとって、少なくともヨーロッパや中国よりは馴染みのない世界であること、また、イスラーム教が偶像崇拝を禁止していること(つまり神や始祖ムハンマドの絵を決して描いてはならないということ)が影響しているのかもしれません。

 そこで本記事では「番外編」として、歴史ものではないものの、せめてこの「先進地域としてのイスラーム」というモチーフが味わえる作品を紹介させてください。その作品とは『図書館の大魔術師』。連載中作品としては個人的に最推しの作品の一つです。

 本作はアトラトナン大陸という架空の地を舞台としたファンタジー作品です。主人公のシオは、ある小さな村に住む、物語を読むのが好きな少年です。彼は金髪と長い耳という、人と違った見た目を理由にまわりから差別を受けており、この辛い日々から自分を救い出してくれる、物語の主人公のような英雄が現れることを願う日々を送っていました。
 そんなある日、大陸にある全ての書を管理しているという中央図書館から、司書(カフナ)が村の図書館の視察のために派遣されてきます。見た目も中身も華やかなこの司書と意気投合したシオは、この司書こそが自分を救いに来てくれた主人公なのでは、と感じるようになります。しかしシオはやがて、この司書との交流、そしてその過程で起きたある事件を通して、「書」というものが人の世に与える影響の大きさ、そしてその知を身に着けることで、この辛い日々も自分の力で変えることができるということを学んでいきます。彼自身が、彼の人生という物語の「主人公」になれるのだということを知るのです。そしてシオは、この司書を追って中央図書館の司書になることを目指すことになります。

 本作のわかりやすい特徴の一つが、表紙を一目していただくだけで伝わると思うのですが、そのあまりにも精緻で美しい画風です。カフナたちは中央から派遣されてきただけあって煌びやかな衣装を身にまとっているのですが、その衣装に施された刺繍の一つをとっても、それぞれが細かく描かれている。あるいは、追ってシオが見習いとして勤めることになる中央図書館の建築意匠も統一された世界観で作りこまれており、このファンタジー世界が、圧倒的なリアリティをもって私たちの前に繰り広げられていきます。
 そして、さらに面白いところが、そうした中央都市の衣装、建築等の文化描写が、史実のイスラーム文化をひな形としているところです。作者の泉光先生のTwitterによると、正確には中世イスラームよりも後の時代のイスラーム王朝をモデルにしているそうなのですが、中央図書館は中東の文化を思わせるような建築になっているほか、この大陸に住む主要な民族の男性はターバンを被っていたりしています。そして、こうした土地に様々な文化から生まれた書が、知が中央に集積し、管理され、混ざり合っている。これはまさに上記で述べた、様々な文化の融合として世界最先端の学問を発展させたイスラーム圏の姿を彷彿とさせるものであり、世界史という文脈におけるイスラーム像の理解に対して、示唆に富む作品になっていると思います。

 こうした特徴に加えて、私がこのファンタジー作品を本記事シリーズでとりあげたかったもっと大きな理由が別にあります。それは、この作品が「架空の『歴史もの』」という、非常に構築難易度の高い物語に挑戦しているということです。

 というのも、本作ではこのアトラトナン大陸がこれまで辿ってきた歴史が断片的に描かれていくのですが、これらは作品の世界観に奥行を持たせるための舞台装置であることに留まっていません。これらの歴史は、なぜ今この大陸に「中央図書館」なる組織があるのか、そしてこの大陸はこの後どのような社会情勢、政治情勢になっていく見込みなのか、ということに密接に関わっているものとして提示されていくのです。
 具体的には、この大陸には大きく分けて7つの民族がいるのですが、かつてある大災害をきっかけとした居住可能区域の減少等によって、凄惨な民族対戦が起きています。そして、各民族を代表する英雄の話し合いを通して、限られた土地を各民族の自治区として分割することとなり、各英雄が自民族の不満を抑えることで現在は一応の平和を見ている、というのが本作の第1話時点の状況です。しかしながら、作中時間ではその各英雄がちょうど代替わりの時期にあり、これをきっかけに民族間の合意が揺らいできているのです。しかもさらにややこしいことに、この7民族の中には、かつて一方が他方を奴隷として使役していたが人権運動によりこの限りでなくなった、あるいは一方が他方の民族を全滅させるべく大虐殺を繰り広げた、といった過去を持つ民族の組み合わせもあり、調和が容易ではないのです。
 また、特に特定の民族を差別した大虐殺というのは暗黒の歴史であり、この大虐殺のきっかけとなった思想書は、中央図書館の手で流通しないようになっています。中央図書館は、悲劇の抑止を目的とはしていますが、言論検閲という裏の顔を持っているわけです。

 では、こうした過去を克服して、民族間の調和の揺らぎを補いつつ、明るい未来を手にするにはどうすればいいのでしょうか?
 それは結局のところ、克服したい過去を覆い隠すのではなく、克服したい過去それ自体に向き合うことでのみ実現できるのだと思います。過去の克服に対する最適解は、なぜそんな過去が生まれたのか、その経緯を知らないことにはきっと到達できないのですから。過去のことはひとまず水に流す、というのは一見楽です。しかし、特に被害者側は水に流すことなど簡単にはできません。また、過去の経緯にかかわらず万事に適用できるような解決策があればどんなにかいいでしょう。しかし、そんなものはおそらくないのです。その対立の経緯を調べて、何がいざこざの原因になったのか、何が当事者の憎しみを生んだのか、複雑にからまった糸をほどいていって、そうしてやっと到達できるその過去に対するオーダーメイドの解決策を、当事者に提示する。目の前の対立を解決するためには、一方の主張を何らかの理屈をもって不当と一方的に断じるのではなくて、そういう面倒くさい作業を、誠実に着実に行っていく必要があるのだと思います。
 そして、そういう作業を可能にするためには、当然その過去の記録が無くてはならない。そして、その記録を代々に継いでいかなくてはならない。だからこそ、きっと人は書を紡ぎ、歴史を紡ぐのです。過去に何があったのかを記し、それを後世に遺す。するとその記録が、書が、人を、新たな未来を形づくっていく。そうして人類はその営為を続けてきたし、これからも続けられるように、私たちは生きなければならないのだと思います。
 この『図書館の大魔術師』では、少年シオは「後に再び訪れる世界の危機で大きな役割を担うことになる」という説明書きが入ります。そして作中では、シオは見事司書試験に合格して見習いとして中央図書館で働くようになり、その過程で、この大陸が秘める様々な過去に触れることになります。そうして成長したシオが、やがて世界に訪れる危機を、民族間の対立を調停しながら克服するのだとすれば。それはまさに上記で述べた「歴史を紡ぐ」という営為そのものなのであり、このファンタジー作品に私が「架空の『歴史もの』」という看板を掲げる、何よりの理由になるのです。

 さらにもう1点。この作品はファンタジーなのですが、表紙を見ると、「画 泉光」「原作 『風のカフナ』」「著 ソフィ=シュイム」「訳 濱田泰斗」とあります。しかし、『風のカフナ』なる作品はこの世に存在しません。さらには『風のカフナ』の著者というソフィ=シュイムは、なんとこの『図書館の大魔術師』の作中キャラクターです。
 つまり、私たちが読んでいる『図書館の大魔術師』が『風のカフナ』を原作としている事実から、原作著者たるソフィ=シュイムは、私たちの現実世界にかつて存在していた人ということになります。さらに、この『風のカフナ』に著者ソフィが登場している以上、『風のカフナ』はソフィが実際に体験した出来事を物語にしたものということになります。
 そうすると、『風のカフナ』を原作としたこの『図書館の大魔術師』の作中世界は、私たちの世界と地続きになっているのです。もっと言うと、この『図書館の大魔術師』で語られる物語は、私たちの世界において過去に実際に起こった出来事(すなわち歴史)である、そういう形式を本作はとっていることになるのです。
 その意味でも、この『図書館の大魔術師』というのは確かに「歴史もの」なのであり、「番外編」と銘打ちつつも、何としてもこの記事シリーズで挙げたい作品だったのです。

 ファンタジー作品であるにもかかわらず、以上のように二重の意味で「歴史マンガ」の性質を獲得している『図書館の大魔術師』。そうまでして本作は私たちに何を見せ、またどのようなことを訴えかけたいのでしょうか。ぜひ、ご自身で本作を手に取り、本作の世界に身を委ねてみてください。

次回:【中世⑤】『シュトヘル』~モンゴル帝国の勃興と「文字」のもたらすもの~ 


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