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【中世⑤】『シュトヘル』~モンゴル帝国の勃興と「文字」のもたらすもの~

※ 本記事は記事シリーズ「あのマンガ、世界史でいうとどのへん?」の記事です。
※ サムネは『シュトヘル』1巻表紙より。

 本記事シリーズの中世の章もこれで6記事目(番外編を含みます)です。

 ここまでで私たちは、東アジア、ヨーロッパ、イスラーム圏という3大地域の中世中盤くらいまでの歴史を順に見てきたことになります。
 この歴史の追い方について、せっかく「中世」という章立てでシリーズを構成しているのだから、ある地域について一旦中世の終わりまで歴史を追い、その上で次の地域に話を移せばいいのでは?と思われた方もいるかもしれません。しかしながら、そうはせずわざわざ一度中世中盤で時代を区切って各地域を順に概観したことには理由があります。それは、この中世中盤のタイミングで、この3つの地域全てに対して多大な影響をもたらしたある大事件が起こっているからです。
 それは他でもなく、モンゴル帝国の勃興です。

 東アジア地域の歴史は基本的に中国一強である。そんな話を以前『キングダム』の記事で書いたと思いますが、その一強の中国がいつの時代も悩まされてきた相手があり、それは北方の遊牧民族です。
 これまでの時代でも、この異民族に一時的に中国の北半分を支配される(三国志の少し後の時代です)などかなり押された時があったのですが、そうした遊牧民族による中国進出の最たるものが、13世紀前半に始まるモンゴル民族の台頭でした。この時代はもともと「金」、「西夏」といった異民族の国が台頭し、唐を継いで中国に興っていた「宋」という国に圧力をかけていた時代だったのですが、チンギス=ハン率いるモンゴルは対外侵略を開始するとこの金、西夏を早々に蹂躙。そしてチンギス=ハンの5代後のフビライ=ハンの時代には全中国を支配し、「元」を建国します。中国史上、中国全域が漢民族以外の民族に支配される初めての出来事でした。

モンゴルの進出は東方の対中国に留まりません。西方にも矢のごとく侵略の手を伸ばし、当時イスラーム教勢力が席巻していた中央アジア~中東アジア地域の東半分を征服。イスラーム圏の範囲はこれにより一時大きく狭まり、モンゴル支配域は、モンゴルにとってはるか西方にあったはずのビザンツ帝国と接するまでになります。
 そしてこれに飽き足らず、そのビザンツ帝国の頭上をまたぐようにして西進を続け、ここでぶつかったロシア西部・ウクライナを征服。そしてさらにその西方でモンゴル軍を迎え撃ったドイツ・ポーランド連合軍に圧勝。中世ヨーロッパ世界を恐怖のどん底に陥れます。遥か東西に延びるユーラシア大陸の全域を、まさに縦横無尽にかき乱したのです。


 このように世界史上でもかなり衝撃的な事件であるからか、この時代を題材としたマンガ作品も多く制作されています。例えば、「元」は朝鮮半島を縦断してそのまま日本にも二度攻め込んでいるのですが、鎌倉幕府がこれを迎え撃った戦いを描いた『アンゴルモア 元寇合戦記』。あるいは、モンゴルに拉致されたイスラーム教圏の奴隷の少女がモンゴル帝国内でのし上がっていく『天幕のジャードゥーガル』。同じモンゴル帝国を題材にするにも、この帝国があまりに広域に影響を及ぼした国ですので、舞台の選択によって多様な作品が生まれるということなのだと思います。

 その中でも特にここで挙げたいのは、伊藤悠先生作『シュトヘル』です。舞台とするのは上記でも言及した西夏。中国北西方面で栄え中国と共存し、そして中国もろともモンゴルの手によって滅亡した小国です。

 本作で描かれるのは、端的に言うならば「西夏文字の保護」の物語です。遊牧民族の少年ユルールは、彼の一族と西夏との縁から、西夏独自の文字である「西夏文字」の全てが刻まれた「玉音同」の保護を西夏より託されます。しかしチンギス=ハンは、この西夏文字について異様な執念でその滅失を図っていました。ユルールは、モンゴルへの復讐に囚われる西夏人の女戦士シュトヘルを用心棒に、モンゴル軍からの逃避行に身を投じることになるのです。
 そしてこの逃避行に一捻りを加えるのが、現代日本の少年スドーの存在です。彼はもともと「自分が知らない戦場」にいる夢を見ることに悩まされていたのですが、転校生の少女スズキ(ユルールにそっくり!)の導きで、その意識が過去の西夏に存在するシュトヘルの肉体に跳躍。これが、逃避行の最中で一度モンゴルに敗れ処刑されてしまったシュトヘルの新たな魂となり、彼女を蘇生させます。そして以後、シュトヘルの中身はスドーになり、ユルールとの旅を再開するのです。
 しかし、この後一度スドーはあるタイミングで現代日本に意識が戻ってしまうのですが、そこで目にしたのは、「西夏」なる国の記録と、転校生のスズキが消えてしまった世界。ユルールによる西夏文字の保護に何かがあったと気づいた彼は、再び意識を過去に飛ばし、シュトヘルとしてユルールとの旅を続けるのです。

 このスドーの存在は、この『シュトヘル』という物語のエンタメ性を増すスパイスになっているだけでなく、ユルールの戦いが現代の私たちにとってどのような意義があるのか、ということを可視化する装置にもなっています。すなわち、ある国の文字が消えるということは、スドーが一度目にしたように、ある国の記録が途絶えるということなのです。つまり、私たちにとってその国は「存在しなかった」ことになる、ということなのです。私たちは学校の歴史の授業で、あるいはこの記事シリーズで当たり前のように「過去にこういう出来事があった」という話をしているわけですが、もしその記録がなければ、それは現代においては起こらなかったも同義になってしまうわけで、何かを記録し、そしてその記録を受け継いでいくという営みの偉大さ、それがなされなかった場合の深刻さを認識させられます。

 しかし文字の意義というのは、ただ何かの存在を記録するだけで完結するものではありません。本作中では、シュトヘルが、そして他の仲間たちがユルールの保護する西夏の文字を学ぶことで、自分の存在を、思いを記録して他者に届けることの喜びを知るようになっていくさまが描写されます。他者との関わり方は決して暴力だけではないし、声の届かないところにいる人とのコミュニケーションは決して不可能じゃない。文字は何かを記録し、そこにただ鎮座しているだけで偉大なのではなく、人と人が時空を超えてつながることを可能にすることにこそ、その真価があるのだと思います。
 そして、それは現代の私たちと、過去に生きた彼らの関係においても同じです。文字は、単に「過去に彼らが存在していた」という事実を私たちに提示するだけではない。後世の私たちがその記録と向き合って、何かを感じたり、何かを学んだりすることで、その記録は、過去に生きた彼らは、その都度新しい形で息を吹き返すのです。ある時は誰かの感動に。ある時は誰かの励みに。ある時は現代の問題解決の糸口に。そのように様々な形で生き直されることで、受け継がれてきた文字は、記録は初めてその真価を発揮するのであり、それこそが「歴史」という営みなのだと思います。

 この『シュトヘル』最終巻の最後のページには、ユルールの言葉が実際の西夏文字をもって掲載されています。これまで物語の中にしかいなかったユルールがまさに私たちの面前に立つ瞬間であり、私たちがその瞬間に立ち会い、何かを感じるたびにまた、ユルールは何度も生き直されるのです。

次回:【中世⑥】『レベレーション-啓示-』~中世英仏の破局と「人間」ジャンヌ=ダルクのすがた~


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