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秋冬のこと

父の病状が急に進行して、慌てて主治医の先生に連絡したのが10月の初めだった。
検査はあっという間に終わったが、結果を聞くのは11月になった。
もう医師に必要以上の期待をすることもなくなったが、宙ぶらりんのひと月は、ただひたすら毎日が大変で、浅い呼吸のままに過ぎていった。
その一方で、きっとこれも、この日々も、やがては過去になるのだとわかっている自分がいて、重たい石を抱えるような心持ちにはなっても、大きく悲嘆したり、騒いだりする気にはならなかった。
これを成長あるいは老成などと呼ぶのだろうか。
いや、単なる経験による鈍化かも知れない。学びによる強さであれば良い。



親元の庭の柿の木は、もう実をつけることはない。
2年ほど前に、小さなかわいらしい青柿が一つ、木から落ちてきたことがあったけれど、それきり。聞けば母が子供の頃からあるというから、70年はそこに立っている。もう実をつける時期は過ぎたのだ。

そのかわり、秋の紅葉は素晴らしい。
一枚一枚、それは鮮やかな色になる。補色の斑を浮かべた姿はそれだけで嘆息するほど美しい。手帳に挟めるほどのものもあるが、多くは私の掌がすっぽりと隠れるほど大きい。

木全体が燃え立つような姿になり、やがて厳かに散る。朱紅赤紫臙脂代赭が小さな庭を埋める。
11月はこの葉が家の主役だ。



検査結果はある程度予想された通りのもので、与えられた選択肢の前で父の意思も変わらなかった。ほんのひと月前に時を、病状を戻すことはできないのかという淡き望みは消えた。
私は家人としての心情を抑えきれず医師に訴え、先生は理解を示してくれたけれど、同時にこうも釘を刺された。
まだこれからもこのようなことがあるだろう、と。そうか。またあの春やこの秋のような季節を経験するのだな、私は。家族は。


木々を敬うように、与えられたいのちや病を敬って、生きていく。
明日からは静かな冬が、ともに歩いてくれる。




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