歯医者に行かなくちゃいけないんだ、と少し不安そうな様子に、大丈夫、いっしょに行くよ、と言ってわたしは父と出かける。新幹線のような、列車で行く。 父は背広姿で、まだそれが似合う年頃だ。背広というのは働く人の衣装だから、リタイアして時の経つような人にはもう似合わない。 わたしは父が40代の時に生まれた。わたしにとっての父は常に壮年というような年頃で、贔屓目でもあろうがわりと若く見える人ではあったけれど、若いパパ、という記憶はない。そのかわり、いつもスーツ姿のしゅっとした人だった。
今朝の秋 というけれど、それはこんなふうかも知れない。きょうも日中は真夏並みの猛暑であるらしいが、朝は少し日が弱い。わたしは散る木の葉を掃き、母は植木に水を遣って、何もかも静かであるのに気づく。昨日までとは違う。季節が過ぎたのだ。 昨晩、母と電話がようやく通じると 今晩はうなぎ買ったから発芽玄米入れないでご飯を炊いて と言う。これこれこういう訳で遅くなってごめんとかなんとか、まあ言っても良さそうなものだが、そんな発言はない。それでも、帰りの電車に居ると聞いてわたしはすこぶ
行き過ぎる車の朱いテイルランプを見ながら、ああ日が短くなったのだと気づく。いつもと同じ時刻であるのに、ライトが明るく、あたりが暗い。 昼間はずいぶん暑かったが、夏服で歩くぶんには暮れ時の風は心地よい。中秋を過ぎて、もうお彼岸なのだから、これくらいにはなっていい。夏から秋へのうつろいはもう以前とは違ってしまったが、初秋という季節はまだ完全に消えてはいないらしい。アオマツムシが甲高く鳴いている。 少し前ならヘルパーのMさんが来ている時刻だ。もう来ることはない。あれから、二度ほど
ホテルからの宅急便が届くのを待って、わたしたちはお寺へと出発した。 東京には昨晩遅く帰った。旅の疲れもあるだろうなどと一応言ってみたが、なんとしてもきょうお寺へ行き、無事に納骨を終えた報告とご挨拶をするのだと母は譲らない。 昨日は、 帰りの新幹線の切符を手配すると、駅の中にある名物のうどん店に行った。母はこれが好物だと言っているけれど、私が思うには祖父との思い出が恋しくて食べている。東京と郷里との往復を繰り返していた祖父と、母はよく一緒にこの店に来た。真夏の暑いときも、背広
昨日の朝とはうってかわって、芋を洗うようなホテルの朝食会場で、わたしと母はぼんやりとしている。このホテルにこんなに人がいたとは。世間は連休であったらしい。 マイペースの母を残して、先に部屋に戻ると荷造りをする。今日も伯父に車を出してもらうのだ。約束の時間に遅れたりしてはならない。増えてしまった荷物は宅急便で送る手配をした。 伯父と昨日の家へ向かう。助手席から窓の外を眺めながら、わたしは呟く。 今日お父さんの誕生日だ そうやなあ と伯父は答えた。 昨日の晩は、M鉄工所の息
朝からの雨が上がり、いまは青空だ。 湿気を孕んだままの空気を、射るばかりの強さで太陽が照らす。暑さの増した墓地の砂利の上で、読経を聴いている。ここには父の父母、わたしからみれば祖父母が眠る。初めてお会いするご住職は女性だった。誰かに似ておられるという感じを受ける。誰かはわからない。 お墓は伯父と伯母が先に来て、きれいにして、お花を供えてくれてあった。わたしは母とホテルにいただけだ。暢気でだめな東京者を、いつもいなかのひとが補ってくれる。 父のお骨を納めると、伯父の車に乗せて
幾筋かの細い川を渡り、高架だった線路がほぼ地面の高さになる。身を傾けて、窓の外にわたしと母は目を凝らしている。 あ、あった、あれ 庭に、家と線路の間に松の木のある家がある。松といっても、高さは一階の軒下ほどしかない。どのように仕立てるものか、盆栽のように一本の太い枝を横へ横へと伸ばしてある。その長さはちょうど家の横幅いっぱいくらいもある。家を囲う垣根も塀もないから、線路際のその家の庭はよく見える。家主も列車から見えることを意識してか、松の木はよく手入れされている。 いつも、帰
兄弟の子どもは姪もしくは甥だ。ではその子どもは何と呼ぶのだろう。 そんなことを考えながらわたしは裁ち鋏でシャツを切っている。 誰かが洋裁を嗜むというわけでもないのに、家には裁ち鋏が複数ある。父のかつての勤務先で使われていたものだ。普通の紙切り鋏ではすぐに刃が弱ってしまうくらい、申込みがくる。その封筒を開封するのに使っていたと父から聞いた覚えがある。沢山あるそれを、処分する段になって数丁もらってきたと言っていたように思う。何の申込みであるのか詳しくはわからない。すべてが郵便を介
自身の歌に、抱かれたり蹴られたりすると言っていた歌い手は誰だったか。 いつかこのnoteが救ってくれるなどと思っていたわたしは今、自らのnoteを読み返し、その時々の自分のありように、したたかに蹴られたりしている。 ひとりの練習なんて、書かなければよかった。男の顔なんて、書かなきゃよかった。 この日がこんなふうに、ふいに強い風が吹くみたいに訪れるとは思っていなかった。 父はずっと穏やかだった訳ではない。 むしろ、穏やかならざる時期が長かった。ショートステイ先で介護者の髪の
いまは、忘れていくことが一番こわい。 着替えも、食事も何もかもあんなに大変だった。それを忘れていくことがとてもおそろしい。 起床時間は変わらず、むしろ少し遅いくらいであるのに、朝食が早く整うようになった。洗濯機のスイッチを押すのもずいぶん早くなった。 ほんの数日前のことであるのに、父とともにある朝の時間が過去のことになっていく。 朝起きて、自分の身仕度を済ませて階下に降りると、持って降りてきたコップを台所で洗う。洗濯物を抱いたまま、父の寝室をのぞいてお父さんおはようーと声
本日は厳しい暑さの中、またお忙しい中 父 の葬儀にご参列くださり誠にありがとうございます 少しだけお時間をいただいて父の話をさせていただき 挨拶にかえさせていただければと存じます 父は 若き日は祖父 の秘書として国会でのお仕事に情熱を傾け 後年は検定試験の実施や問題集の作成など社会教育の振興に尽力いたしました 秘書時代のことは、まだ私は幼く、母や周囲から伝え聞くのみですが、国会や選挙区でのあれこれが、おそらくは父の青春であったのだろうと想像しています 検定試験の実施において
ここに一枚の写真がある。 壁にかけられた大きな絵の前にふたりが立つ。父もわたしも、それが誰かわからないくらい若い。そして笑っている。 これはわたしの初めての個展の時の写真だ。画廊のマスターが撮ってくれたものだろうか。画廊支配人の浅川さんは、たしかその時はじめて父に会った。父が帰ったあとで お父さんはまだ60前でしょう ぼくは人の歳はわかるんだ とわたしに言った。父にその話をすると、ずいぶんうれしそうだったのを思い出す。父はその時70歳。24年前の写真なのだ。 いま この写
今朝は5時に起きて、とその人は語る。 アトリエ入りは6時、と別の人は言う。 やりたい努力を目一杯にやって、自分に厳しくおそらくはひとにもそうで、いかにも充実した日々が、しごとが、その人たちの顔にはあらわれている。 その人たちには家族はいないのかというと、そんなことはない。伴侶がいて子どもがいて、知らないけれど親御さんもいる。でもその人たちの一日には、家族の着替えを手伝って、食事を作り、食べさせて服を洗濯し、干して、などという事柄は登場しない。いや年に二、三度はそんなこともある
なんでがんばらなかったんだろう。 長閑な眺めが少し街めいて、ここは豊橋。何年も前にホームに降り立ったことを思い出す。ホームで、とても会いたい人に会ったのだ。向こうは西から、わたしは東から出向いて、その半ばに位置する豊橋で待ち合わせた。うれしくて、思わず互いに手を広げて駆け寄り、ハグした。確か暑くなり初めの頃だった。相手の仕事のことを考えると、やはり今ごろ、6月だったのかも知れない。 会いたくて会いたくて会えてうれしい、 いまは 人とのそんな関係性がいかに稀で、得難いものであ
ねえ、一日が長くない? いつも、クラスメイトとのおしゃべりは気持ちよく聞き流しているわたしも、この言葉には思わずえっと顔を上げた。 そうなのよ。何してる? と会話は続く。 母より少しお若いくらいのマダムたちのやりとり。一日が長く、持て余すのだそうだ。何をして時間を潰してる?という問いであるらしい。そういうものか。いつかわたしにもそんな日がくるのだろうか。 私には一日は短い。やりたいことやるべきことをあれもこれも残したまま、決まったルーティンをこなして日は傾き夜は更ける。そして
父も母もいない土曜日、ようやく布団を夏物に入れ替えた。暑いほどによく晴れたから、洗濯機も2回まわした。 これから母のところに面会にいく。午前中は父のところへ行っていた。せわしく二人の間を動いて、それでもわたしはうんざりもしていなければ、くたびれてもいない。むしろ身体はいきいきと動く。 父も母もいなくなってしまったら、わたしはどうなるのだろう。 せっかくひとりだというのに、家事ばかりしている。日曜日は少し朝寝したけれど、雨の降る前にとまたカバーやらタオルケットやらを洗う。洗っ