さや

絵を描いています www.instagram.com/sayakaisozumi/

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背広

歯医者に行かなくちゃいけないんだ、と少し不安そうな様子に、大丈夫、いっしょに行くよ、と言ってわたしは父と出かける。新幹線のような、列車で行く。 父は背広姿で、まだそれが似合う年頃だ。背広というのは働く人の衣装だから、リタイアして時の経つような人にはもう似合わない。 わたしは父が40代の時に生まれた。わたしにとっての父は常に壮年というような年頃で、贔屓目でもあろうがわりと若く見える人ではあったけれど、若いパパ、という記憶はない。そのかわり、いつもスーツ姿のしゅっとした人だった。

    • 9月2日

      兄弟の子どもは姪もしくは甥だ。ではその子どもは何と呼ぶのだろう。 そんなことを考えながらわたしは裁ち鋏でシャツを切っている。 誰かが洋裁を嗜むというわけでもないのに、家には裁ち鋏が複数ある。父のかつての勤務先で使われていたものだ。普通の紙切り鋏ではすぐに刃が弱ってしまうくらい、申込みがくる。その封筒を開封するのに使っていたと父から聞いた覚えがある。沢山あるそれを、処分する段になって数丁もらってきたと言っていたように思う。何の申込みであるのか詳しくはわからない。すべてが郵便を介

      • 8月25日

        自身の歌に、抱かれたり蹴られたりすると言っていた歌い手は誰だったか。 いつかこのnoteが救ってくれるなどと思っていたわたしは今、自らのnoteを読み返し、その時々の自分のありように、したたかに蹴られたりしている。 ひとりの練習なんて、書かなければよかった。男の顔なんて、書かなきゃよかった。 この日がこんなふうに、ふいに強い風が吹くみたいに訪れるとは思っていなかった。 父はずっと穏やかだった訳ではない。 むしろ、穏やかならざる時期が長かった。ショートステイ先で介護者の髪の

        • 8月5日

          いまは、忘れていくことが一番こわい。 着替えも、食事も何もかもあんなに大変だった。それを忘れていくことがとてもおそろしい。 起床時間は変わらず、むしろ少し遅いくらいであるのに、朝食が早く整うようになった。洗濯機のスイッチを押すのもずいぶん早くなった。 ほんの数日前のことであるのに、父とともにある朝の時間が過去のことになっていく。 朝起きて、自分の身仕度を済ませて階下に降りると、持って降りてきたコップを台所で洗う。洗濯物を抱いたまま、父の寝室をのぞいてお父さんおはようーと声

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          喪主あいさつ_7月30日

          本日は厳しい暑さの中、またお忙しい中 父 の葬儀にご参列くださり誠にありがとうございます 少しだけお時間をいただいて父の話をさせていただき 挨拶にかえさせていただければと存じます 父は 若き日は祖父 の秘書として国会でのお仕事に情熱を傾け 後年は検定試験の実施や問題集の作成など社会教育の振興に尽力いたしました 秘書時代のことは、まだ私は幼く、母や周囲から伝え聞くのみですが、国会や選挙区でのあれこれが、おそらくは父の青春であったのだろうと想像しています 検定試験の実施において

          喪主あいさつ_7月30日

          100_7月25日

          ここに一枚の写真がある。 壁にかけられた大きな絵の前にふたりが立つ。父もわたしも、それが誰かわからないくらい若い。そして笑っている。 これはわたしの初めての個展の時の写真だ。画廊のマスターが撮ってくれたものだろうか。画廊支配人の浅川さんは、たしかその時はじめて父に会った。父が帰ったあとで お父さんはまだ60前でしょう ぼくは人の歳はわかるんだ とわたしに言った。父にその話をすると、ずいぶんうれしそうだったのを思い出す。父はその時70歳。24年前の写真なのだ。 いま この写

          100_7月25日

          男の顔

          今朝は5時に起きて、とその人は語る。 アトリエ入りは6時、と別の人は言う。 やりたい努力を目一杯にやって、自分に厳しくおそらくはひとにもそうで、いかにも充実した日々が、しごとが、その人たちの顔にはあらわれている。 その人たちには家族はいないのかというと、そんなことはない。伴侶がいて子どもがいて、知らないけれど親御さんもいる。でもその人たちの一日には、家族の着替えを手伝って、食事を作り、食べさせて服を洗濯し、干して、などという事柄は登場しない。いや年に二、三度はそんなこともある

          西へ、東へ

          なんでがんばらなかったんだろう。 長閑な眺めが少し街めいて、ここは豊橋。何年も前にホームに降り立ったことを思い出す。ホームで、とても会いたい人に会ったのだ。向こうは西から、わたしは東から出向いて、その半ばに位置する豊橋で待ち合わせた。うれしくて、思わず互いに手を広げて駆け寄り、ハグした。確か暑くなり初めの頃だった。相手の仕事のことを考えると、やはり今ごろ、6月だったのかも知れない。 会いたくて会いたくて会えてうれしい、 いまは 人とのそんな関係性がいかに稀で、得難いものであ

          西へ、東へ

          夏至まで

          ねえ、一日が長くない? いつも、クラスメイトとのおしゃべりは気持ちよく聞き流しているわたしも、この言葉には思わずえっと顔を上げた。 そうなのよ。何してる? と会話は続く。 母より少しお若いくらいのマダムたちのやりとり。一日が長く、持て余すのだそうだ。何をして時間を潰してる?という問いであるらしい。そういうものか。いつかわたしにもそんな日がくるのだろうか。 私には一日は短い。やりたいことやるべきことをあれもこれも残したまま、決まったルーティンをこなして日は傾き夜は更ける。そして

          夏至まで

          ひとりの練習

          父も母もいない土曜日、ようやく布団を夏物に入れ替えた。暑いほどによく晴れたから、洗濯機も2回まわした。 これから母のところに面会にいく。午前中は父のところへ行っていた。せわしく二人の間を動いて、それでもわたしはうんざりもしていなければ、くたびれてもいない。むしろ身体はいきいきと動く。 父も母もいなくなってしまったら、わたしはどうなるのだろう。 せっかくひとりだというのに、家事ばかりしている。日曜日は少し朝寝したけれど、雨の降る前にとまたカバーやらタオルケットやらを洗う。洗っ

          ひとりの練習

          やさしくなる

          母がどんどん優しくなっていく。 わたしはそれを、日々かなしく見まもるしかない。 やさしい人には、優しく接する。ずっと怒ってばかりだったわたしは、苛立つことすらほとんどなくなった。 11年ぶりに、大阪の地を踏んだ。 あれ以来だ。もう来ることもないと思っていた訳でもないし、すぐまた来るだろうとも思ってはいなかった。そんなことを考える隙間もないままに、11年は過ぎた。あの時と同じように、先生と呼ばれる仕事をさせてもらっているし、父も母も、生きてそばにいてくれている。 絵は、 当時

          やさしくなる

          展覧会のお知らせ

          いつも読んでくださりありがとうございます。 この頃はなかなか更新ができていませんが、つねにnoteのことは心にあります。 まもなく1年1ヶ月ぶりの個展です。 今回は初めて銀座・京橋を離れ、早稲田にある煉瓦造りの建物、スコットホールのギャラリーで展示をします。 こどもの頃から親く仰ぎ見ていた建物に、自分の絵を並べて何が見えてくるのか、半ばひとごとのように想像しています。 日々は心波立つことが多く、あとほんの数日で初日とは思えないほど仕度はできていないのですが、 あなたに 観

          展覧会のお知らせ

          庭のこと

          庭師さんが来てくれた。 今年はもう決まっちゃってて無理ですね、来年、と言っていたのに、キャンセルでも入ったものか、2023年もあと3日という日に来てくれた。 庭の手入れに来ていただくのは3度目だ。この方にお願いしてから、庭が広くなった。家の歴史とともに半世紀近くを経た、小さな庭。 なにしろきれいになる。木々は姿を整えて、落ち葉や雑草の降り積もった地面は履き清められ、どちらも嬉しそうに見える。その状態をキープできれば、いいなあ。そのままとはいかなくとも、まだ草の生えぬこの時季な

          庭のこと

          揺れるな、ゆれるな、心。 ふとしたことで感情がすぐに揺さぶられてしまう。 なぜ私にはこうも自由がないのか、と、 人との何気ない会話をきっかけに一度そう思ってしまうともう駄目だ。自由がない?ならば今のわたしはどうなのだ、自由だからこそこうして一人でいる。今日の仕事は終わった。まだ親のご飯の仕度をするには間がある。であるのに、一度胸を突いた悲しみは深く疼いて、わたしは涙ぐまんばかりになっている。 そんな時には、走る。これから授業、などという時にはそれはできないけれど、条件が許せ

          11月22日

          疲れすぎて、何か喋っていないとだめで、わたしは母を責め立て続ける。あらゆる方向から責める。なぜ私はこう口ばかりたつようになったのだろう。 父のベッドサイドに立ったまま、父の足の先に佇む母に向かって、私は半ば叫ぶように言う。 もう無理だ、お父さんをプロに託したい 私身体中が痛いんだよ 精神も壊れてしまうよ と、父が そうか、それはいかんな と言った。 父は、もうこの頃はほとんど喋らない。時折、何か話していることもあるのだが、うまく聞き取れないし、会話として言葉のやりとりが

          11月22日

          10月20日ごろ

          ヘルパーさんの手を借りないと、父をベッドからおろすことはできない。ヘルパーさんは夕刻に帰るから、それ以降の夕食はテーブルではなく、ベッドサイドに小さな机を置き、そこにお膳を据えて父に食べさせる。 私は椅子に腰掛けて、父はベッドを起こして、私たちは斜めに対峙しながら食事をする。 母が突然入院して父と二人暮らしとなった期間も、それは同じだった。 夜、父はお膳を挟んで私と向かい合いながら、時々わたしの背後に視線をやることがあった。私の背中側には扉がある。その開いているドアの辺りを覗

          10月20日ごろ