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暖簾

花火大会のない夏、男性の着物姿は余計に目立つ。
地下鉄のホームに、着流しに雪駄姿のひとが立っている。
濃い紫に茶の入った着物がすんなりとして、雪駄の鼻緒には細かな柄が織り込まれ、そして何より、淡い黄色に草色の縞が入った帯の、結び方がうまい。どう見ても素人さんではない。


ふと見ると、鞄持ちと思しき若い人がそばに立っている。こちらは洋服だ。きた電車に乗り込み、着物の人は座り、立ったままの若い人から鞄を受け取った。
お大尽なら車で移動するだろう。二人は交通費と健康を気にかける噺家さんか何かと、そのお弟子であろうと結論づけたあたりで、自分の降車駅がきた。


かつて師匠と弟子というものに間近に接する立場だったことがある。
舞台前の楽屋の、厳しく張り詰めた空気は一生忘れまい。これまでの人生でいちばん緊張したのは、あの暖簾をくぐる時だ。今でも、その時の記憶をなぞると眩暈がする。暖簾の奥にいる、師匠という人。

弟子であった人との縁が途切れ、師匠もまた遠くその名を仰ぐだけの存在になった。

失って失って、いま。
得たものをいっぱいに吸い込み、消化する。




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