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資格試験や受験に関連する記事を書いてみます。まずは簡単に自己紹介から

はじめに

資格試験や受験に関連する記事をいくつか書いて、マガジンにまとめようと思っています。
ノウハウというよりは、私が実践して良かったことや心掛けていたこと、感じていたことなどが中心です。持論ですし、テクニックみたいなものは出てきません。

この記事に目を留めてくださったあなたは、これから勉強を始められるのか、今まさに頑張っていらっしゃるのか、順調なのか、それとも行き詰まっているのか、私にはわかりません。

けれど、せっかく時間を割いて読んでいただくあなたに、何かを感じてもらうきっかけになれたら嬉しいです。


自己紹介

簡単に自己紹介します。

大学三年生のとき、企業への就職を目指して就活するか、それとも何らかの国家試験を目指すか選択しなければなりませんでした。
高校生の頃、漠然と「検察官」に興味を持ったのですが、法学部への進学は検察官になるためではなく、「進路の選択肢が増えそうだから」という理由でしたし(将来の夢がなかったのです。)、三年生になってからも、検察官だけでなく、弁護士や裁判官、他の士業なんかに対しても特に興味を持つわけでもなく、かといって企業に入社したいわけでもなく、将来やりたいことも進みたい道もない状態でした。

明確になりたい職業やその理由を持っている人はとても素晴らしいと思います。ただ、私はそうではなかった。それがコンプレックスでもありましたし、何も考えていないようで情けなくもありました。

友人のほとんどはロースクール(新司法試験受験を目指す人が通う大学院)進学を目指していて、早々に受験予備校に通い始めましたが、周りが明確な目標に向けて努力を重ねる姿を見ると、自分の気持ちとの温度差を実感し、ますます友人たちの目指す道が自分とは無縁に感じられました。


そんなある秋の日のこと。
ものすごく仲のいい男友達とカフェの二階席でいつものようにコーヒーを飲みながら、そういった決めきれない気持ちなんかを打ち明け、「やっぱり就活しようかなぁ」と話したところ、その友人に反対されたのです。
友人は、ロースクール進学を目指していたのですが、同じ道にいきたいと結構な熱量で説得されました。
カフェでの気軽な雑談のつもりで始まったその話題は真面目な話し合いに変わり、どうして決めきれないのか、というところを突き詰めていきました。

その友人との対話の中で、私には法曹(裁判官、検察官、弁護士)を目指す立派な理由などなくて、夢だと言い切れるほどの明確な情熱や信念もあるとはいえず、でも、たぶんそれだけじゃなくて、「報われないかもしれないから。」というのも、理由のひとつだと気付きました。
お金や時間を掛けて社会に出るのを遅らせて、親に心配もかけて、それでも受かる保障などないのです。ハイリスクだと思いました。

友人は言いました。
ハイリスク、でもハイリターンじゃないかと。
それに僕もそんな強い気持ちなんてない。社会的信頼給料を重視したんだ、と。

あぁ。自分だけじゃなかったんだ。
ふっと心が軽くなったのを覚えています。
社会的信頼だとかよく言われる地位や名誉、給料だとかって、口に出したら卑しいような、なんだか傲慢なような気がして憚られていたんです。
でも、それだって大切な欲のひとつに違いないと、すとんと腑に落ちたんですよね。生涯の仕事にするつもりなら尚更、こだわって当然じゃないかと。

今でも、あのカフェの風景や友人との会話、自分の心の揺れも覚えています。
こうして、そのとある秋の日に、私はロースクール進学を目指し始めました。


ロースクールは未修コース(三年間)に進みました。
ソクラテスメソッドの講義(議論しながら行う双方向の講義)は苦手でしたが、学習環境や素晴らしい友人たちに恵まれました。

それでも、ロースクール二年生のときに、一度だけ退学を考えたことがありました。
二年生になると、既習コース(二年間)の生徒が入学し、未修コースと既習コースの生徒が混ざるんですね。
通っていたロースクールでは、進級要件として不可の科目数だけでなく、優良可の科目数も設けられていたので、仮にすべての科目で可以上をとったとしても、可の割合が多ければ進級できない仕組みになっていました。
優良可の目安は人数で決められていたので(上位何割が優というように)、既習の子たちに勝てるわけがないと決めつけて勝手に自信を喪失し、不安に襲われたのです。

今でこそ、そんな心配は杞憂だとわかります。
でも当時は進級できるわけないと決めつけ、勉強に身が入らなくなってしまい、そんな状態で勉強一直線のような環境にいることが辛くてたまらなくなりました。

そのとき、離れて暮らす母にはじめて退学したいと相談したんです。
そんな私に、母は、いつでも帰っておいでと言いました。

母は、私が子供の頃から途中で投げ出すことに対して厳しい人でした。小学生当時、私は習い事のない日はないというほどたくさんの習い事をしていましたが、「あなたがやりたいと言って始めたことだから。」と、小学校を卒業するまでは絶対にやめさせてくれなかったのです。
そんな母が、このときはじめて「途中で辞めていい」と言いました。我慢して心が壊れちゃう方が悲しいから、と。そして、「私が途中で投げ出すことに厳しくしてきたせいで、今、辞めるという選択肢を選べないんだったら、本当に申し訳ないことをしたと思う。」と言ったのです。

不思議なもので、その言葉を聞いて、私の中で退学の選択肢はなくなりました
どうしてですかね。いつでも辞めていいと言われたら、逆に、絶対辞めちゃダメだと思ったんです。
母を悲しませたくないというのもあったし、辞めたいときはいつでも辞められると、心の負担が少しだけ軽くなったからかもしれません。

それから、未修の友人だけでなく、既習で入ってきた子たちの中にも仲良い友人が増えていって、そういった周りの友人たちに支えられたのもありました。

そうして無事、ロースクールを修了したのですが、それは自分自身の努力というよりも素晴らしい友人たちに恵まれ、助けてもらったおかげだと思います。


ロースクール修了後、一度目の司法試験は不合格でした。
そのため、翌年の再挑戦のためにロースクールの自習室を借りることにしました。ロースクールの自習室は24時間いつでも入退室でき、指定席が割り当てられるので参考書も置いておけるのが良かったのです。
予備校は、辰巳法律研究所で答練と模試を受けていました。

私が本当に勉強したと思えるのは、この一年間です。このあたりのことは、別記事で書こうと思っているので省略しますが、おそらく人生で一番勉強した一年でした。
そして、これまでの人生で一番楽しかった一年間だったかもしれません。
濃くて、充実していて、生涯の友と思える友人と一緒に過ごしたあの一年間はかけがえのない時間で、この一年間、一度もつらいとか苦しいとか言ったマイナス感情を抱くことはありませんでした。試験さえも楽しんで受けました。
友人の存在のおかげです。お風呂と睡眠時間以外、ずっと一緒に自習室で過ごしたのです。学食でご飯を食べている時間は、いつも笑わせてくれました。

こうして、二度目の司法試験に合格しました。


司法試験合格後、司法修習を経て、私は弁護士になりました。
弁護士を目指したのは、司法修習を通して、自分の性格や適性からみて弁護士業が一番合っていると思ったことと、弁護士業に興味を持ったからです。
「弁護士としてどんな仕事をしたいの?」、「どんな弁護士になりたいの?」と聞かれると、相変わらず即答できないままの私ではありましたが、それは追い追い見つけていこうと前向きに考えていました。


運よく苦労することなく就職先が決まりました。
私が就職したのは弁護士数が30名程度の事務所で、この地域では大きめの事務所でした。
そんな事務所だからこそ事件の種類は様々で、ここで多くの経験を積ませてもらいました。弁護士業のやりがいも感じていましたし、理想の弁護士像というものも真剣に考えるようになっていました。

ですが、家庭の事情で一旦弁護士業を離れることを決意しました
夫にも相談しましたが、これは私自身の責任において1人で出した答えです。
ボスはいろいろな働き方を提案してくれ、引き止めてくれました。移籍を誘ってくれた先輩弁護士がいました。「辞めるなんてもったいない」と言ってくれた仲間がいました。
感謝してもしきれません。特にボスには恩を返しきれないままの退職になったことを今でも申し訳なく思っています。

でも、一度決めた退職に迷いはなく、私は弁護士を辞めました。
キャリアが途切れる不安はありました。でもそれはそれ、と。
もったいない選択なのかもしれません。でも、後悔はありませんでした。そして、そんな選択をした自分のことは少しだけ好きになりました。




家庭に入り専業主婦になりました。
可愛い娘に恵まれて、「お母さん」になりました。

子育ては大変なことも多いですが、娘とお昼寝したり、買い物や散歩に出かける生活は楽しくもありました。
表情によって夫にも私にも似る娘が不思議で(2人の子供なので当たり前ですが)、可愛くてたまりませんでした。

一歳の誕生日を迎える頃から自我が芽生えてくると、子育ての負担はだんだん大きくなり、イライラしたり疲れきってしまう日もありました。たまには1人になりたいと思う日だってたくさんありました。
でも、娘のことはどんな時だって可愛くて大切なのです。

自分の中にそんな感情が芽生えるだなんて、娘を産むまではうまく想像できずにいました。どちらかというと、子供という存在は苦手だったのです。だから、「我が子は別」という意見を耳にしても、どこか半信半疑でした。
けれど、やはり我が子は可愛い。そして、我が子でなくても街で子供を見かけると「可愛い……!」と思ってしまいます。娘がそんな気持ちを教えてくれたのです。


仕事のことを忘れたわけではありませんでした。社会に出たいという気持ちはありました。
でも、復帰のタイミングを具体的に考えたことはなかったのです。
他にやってみたいことがありましたし、弁護士業のことを考えるのはちょっとお休み、という感じでしょうか。せっかくなら、この休みの期間を娘との時間ややりたいことに費やしたいと思ったのです。

とはいえ、キャリアが途切れた状態でいつまでも休んでいるのも不安。
私は一度事務所を退職しているので、別の事務所に就職するとなるとまた何年間か妊娠しにくいかもしれないと思いました。
そこで、夫と相談し年子で2人目を産むことに決めました。
現在は2人目を妊娠中で、今月中旬には誕生する予定です。

そして、これも夫と相談し、社会復帰のタイミングは(保育園に入園できるかどうかで変わりますが)来年の春頃と決めました。
新しい就職先も決まりました。また弁護士としてスタートを切ります。

子育てしながら働くなんて本当にできるのだろうかと不安はあります。体力に自信もなく、年子育児と仕事で毎日疲れ果てている姿が目に浮かびます。
でも、社会に出ることは純粋にすごく楽しみなのです。休んでいた期間が長かったので余計かもしれません。
そして、「こういう仕事をしてみたい」、「こんな弁護士になりたい」なんてことを、最近はゆっくり考え始めています。


おわりに

以上がこれまでの簡単な経緯です。
別記事にしようと省略した箇所については、これから少しずつ書いていきたいと思っています。出産が重なるので、どのタイミングになるかわかりませんが、もしよろしければ他の記事もぜひ見てくださいね。

最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。



(年子で子供を産むという夫婦会議についてはこちらに書いています。)


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