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【資格試験】一番の原動力になったのは、赤の他人の言葉でした

資格試験(・受験)関連マガジンの三記事目です。

これまでの記事について


一記事目
では、ロースクールに進学後、司法試験に合格し、弁護士として就職してから専業主婦になるまでの経緯について書きました。


二記事目
では、(私の場合は資格や受験予備校の)初回テストでいい点数を取ることの大切さについて書きました。


どちらの記事も、当時の感情や経験にできるだけ忠実に書いています。
よろしければ、これらの記事も併せて読んでいただければ嬉しいです。



今回の記事について


今回は、一番の支えになるのは、時に赤の他人かもしれないというテーマについて書いてみます。



勉強でも仕事でも夢を追う場合でも、踏ん張らなければならないときというのがありますよね。

そのとき、「目標を達成したい」という自分の気持ち以外に支えになるものは、何でしょうか?


家族? 友人? 勉強や仕事仲間? SNSで知り合った人……?

人によって違うでしょうが、「誰かとの絆」にそれを求める人は多いのではないでしょうか。


私の場合は、いつでも応援してくれた両親、それから離れて暮らす優しい祖母、ロースクール生のときに一日の大半を同じ自習室で過ごした親友は、『絶対に司法試験に合格したい!!』という気持ちを支えてくれた存在でした。
あとは、恩師なんかもそうですね。
こういった人たちには、『きちんと合格を報告して、いつか恩返しできたら』と思っていました。

それは間違いなくそうなのです。


しかし、日々の勉強の原動力に一番なっていたのは、こうした感情ではなく、実は、会ったことのない赤の他人の言葉でした。





詳しくは二記事目で書きましたが、資格試験予備校に通い出した頃、私は劣等感の塊でした自信なんて微塵もなかったし、司法試験なんて受からないと決めつけていたのです。


それが、予備校の初回の論文試験で予想外にいい点数を取り、その添削コメントで嬉しい言葉をもらいました。
そのコメントは、このようなものです。

“字がとても美しいこと、7頁まで書ける筆速があることは、他の受験生より大きなアドバンティッジがあります。書き方の形式面もとても良いです。解釈もしっかり書かれています。

なのに、よく書けているのになぜ合格者ではなく受験者の側にいるか。
答案の内容を問題文という箱の中からとり出して書くことより、頭の中に入っている自分の箱の中からとり出して書くことを優先しているように思います。
頭の中の在庫も価値はありますが、陳腐化した在庫よりも価値があるのが問題文の具体的な事情です。
 規範、解釈は受験生全員が頭に在庫として持っているので差がつきません。
あなたの場合、ここのところは十分ですが、新鮮な問題文の事情をいっぱい使うところまで手が回っていないのだと思います。

 答案の形式、書き方の枠組みより重要なのは、実質、中身、心、個別事情です。ここに気が回って書けるようになれば、あなたは合格します。”


初めてこのコメントを読んだ日から受験を終えるまでずっと、この添削者の方がくれた言葉が、日々の原動力となりました。

コメントを読んだとき、心が震えるほど嬉しかったですね。


なぜか?

ひとつは、私自身が自信を持てないでいた答案の良いところを探して褒めてくれたから。

そして、もうひとつは、自分と合格を結びつけたことのなかった私に、「あなたは合格します。」という、宝石のような言葉をくれたからです。


私は基本的に、褒められて伸びるタイプなんですね(笑)
怒られた方が反骨精神で伸びるといった話も聞きますが、私は違います。
仕事でも勉強でも、褒められれば期待に応えたくなって、もっと認められたいとやる気がみなぎります。

ですから、コメントの冒頭からこんな風に予想外に自分の答案を褒めてもらえたことは純粋にすごく嬉しく、「自分の答案をもっと褒められてみたい!」(逆に、ロースクール在学中には、自分の答案を褒められた経験がなかったのだと思います。)という気持ちが芽生えました。

そして、合格するために必要な改善点について詳しく書いてもらったことや、欄外まで長くコメントを書いてもらったことも、すごくありがたく感じました。
添削者からすれば、お金の面だけで言えば、長く書くメリットはないのです。
それでも、労力と時間を割いて書いてくださったのは、合格できるようにという思いからだと思うので、そういった添削者の方の温かい気持ちが心に沁みました。

それから、コメントの最後の一文。
司法試験だけでなく、人生のあらゆるものに対して言えることですが、私にとって足りないもののひとつは、「自信」だと思っています。
これまでの人生で悩んで下した決断や選択については自信を持っていますが、競争ごとなど他者が関係するような事柄については、もっと自信を持ちたいと思うことが多々あります。
いつでも自身に対する絶対的な信頼感がある人は、やっぱり強い。

一記事目でも書きましたが、ロースクール二年生のとき、私は他の学生の存在に勝手に不安感を覚えて自信を喪失し、一度だけ、退学を考えたことがありました。
司法試験についてもそう。
名も知らない大勢の受験生の存在に、勝手に自信を喪失していました。
知識は完璧でわからないことなどなく、答案もすらすら論理的に書ける、そんな空想の完璧な受験生を頭の中で作り上げて、勝てるわけないと決めつけて。
そして、こういう思いは、厄介なことに結構呪縛になるんですよね。

でも、そんな『自分は合格者側にはいけない』という思い込みを、この添削コメントが救ってくれました。
「あなたは合格します。」の、たった一言で。
この言葉は、私の将来を左右した運命の一言だと思っています。



私は、この添削コメントを二部印刷して、一枚は自習室の自分の机にこっそり貼っていました。
普段は、コースターの下になって人からは見えない場所に貼り、朝、勉強を始めるときや、勉強で疲れたとき、不安になったりしたときには、必ず見るようにしていました。

もう一枚は、四つ折りにして、毎日鞄に入れて持ち歩いていました。
司法試験当日も、休憩時間のたびに読みました。
何度も折ったり広げたりしてボロボロになり、折り目の印刷は薄くなりましたが、司法試験当日までお守りのようにその紙を持ち続けました。




眠る前など、ふとした瞬間に、応援してくれている家族などの存在が心に浮かんだり、朝から晩まで同じ自習室で勉強していた仲間の背中に力をもらったりしていましたが、爆発的な原動力を与えてくれて、毎日踏ん張らせてくれたのは、この添削者のコメントでした。
名前も知らない、会ったこともないその人が書いてくれた添削コメントが、受験当日までずっと私を支えてくれました。


支えになるのは、家族や友人といった、すでに自分と深い関わりのある人の存在だけじゃない。
もしかしたら、その方がストーリーとしては美しいのかもしれないけれど、ときに、赤の他人の存在や言動が力になることだってあるのです。そして、赤の他人のそれが一番の原動力になったとしたって、何にも問題なんてない。

「他人」の言葉だからこそ、客観性が担保されて、より心に響くということは往々にしてあるから。


だから、自分の支えになるものは、それがなんであったとしても堂々と貪欲に利用すればいいし、そこに誰かとの絆も、ストーリーとしての美しさも必要ないと思います。




早いもので、司法試験受験から、もう何年も経ちました。
この添削コメントは、今も箱の中に一枚だけ残してあって、たまに箱を開けて広げてみたりしています。
切磋琢磨したロースクールの親友とは、今もものすごく仲のいいまま。ありがたいですね。

今思い返してみても、あの添削者の方に当たったこと自体、奇跡的だなぁと思います。
あのコメントがなかったとしても、受かっていたかもしれないけど、あそこまで勉強できたかわからないし(猛勉強するための切り替えスイッチみたいな存在でした。それまでは正直、本腰入ってなかった……。)、自信は持てないままだったかもしれません。


将来を左右するような出来事なんて滅多にないかもしれませんが、私にとって、あのコメントは、間違いなくそうした出来事のひとつでした。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。