見出し画像

京から旅へ / インド編 インド仏跡巡礼⑳埋もれたストゥーパと、石仏と

バスは昨日までの時間の遅れを、取り戻すかのように、ひたすら ヴァイシャリへの道を、情け無用のガタガタ道を、疾走していた。

座席の上で大きく、ポンピングしてる奴らなど、構っちゃぁない。
プーク!!  プーク!!  プーク!! と、けたたましく警笛を鳴らし続け、 前の過積載トラックを、定員オーバーバスを、ノーヘルバイクを、 負けじと、割り込む牛車を、狂ったように、追い越して行く。

「オー、この調子なら、もしかしたら、予定通りに着けるかも」
「いささか乱暴では、あるが、そこはお国がらと、云う事で‥」と、初日から、少しずつ車内に漂い初めていた “予定は未定⇒ 未定は否定” の、インド式時間管理(所謂インド時間)への不安を 窓から外へ掃き出して、新たに、大きな期待が、膨らみだした。
「よっしゃ、これならヴァイシャリ で、愛しのライオン丸に逢える」

途中、お釈迦様が末期の水を飲んだ、と伝わる川を見る為に、 チラッとバスは止まったが、後は、昼飯もとらずに走っている。
「ン? 昼飯もとらず? ダメじゃん、ぜんぜんインド時間じゃん」
午後2時を過ぎても、予約した食事場所には、到着してな~い。

慌てて、クシャクシャになった、予定の紙を広げると‥
<ヴァイシャリへ到着後、ご昼食、その後、ヴァイシャリ訪問> と、確かに書いてある。
なのに、お食事場所は、いずこに? と、思っているうちに、バスはプシューと鳴いて、停車した。

「見て下さい。此処のストゥーパはたいへん、珍しいです」
「半分、山に埋もれてます。貴重です。見に行きましょう」って、此処の見学、予定の紙には、書いてないんですけど‥
って、思っても。そんな細かい事、構っちゃぁない御様子で、 インド人ガイドは、アルカイックなスマイルを浮かべつつ、 埋もれたストゥーパへと、すたこら、歩いて行くのである。


ストゥーパは、広い平原にポコッとできた,、小山の中にあった。

綺麗に小山の半分を切り取り、まるでサンダーバード秘密基地みたいに、自然の山から、人工のストゥーパが顔を出している。

アショカ王が各地に建設した、ストゥーパだが、実はインドの長い 歴史の中で、仏教迫害の犠牲となった建築物も、たくさんある。

かつて、釈尊(ブッダ)が教えを説き、急速に教団を拡大し栄えた 仏教だが、やがて、バラモンの巻き返しによりヒンドゥー教が 隆盛し、またイスラム教も侵略を繰り返し、仏教は迫害される。
迫害は5世紀頃から始まり、特に、13世紀のイスラム教徒軍のは、 熾烈を極め、仏教の拠点となった大学や施設と共に、遺跡や仏像 等が、数多く破壊され、多くの僧侶や尼僧たちも虐殺されている。
非暴力主義の仏教徒達は戦わず、ヒンドゥー教やイスラム教に 改宗させられたり、国外へ逃れる者も大勢いたようである。

やがて仏教は、インドから、根絶する。
そんなインド仏教の永年の衰退を映し“末法思想” が、起ったと云う。

遠く、東の国、日本では、平安後期。武士が台頭した動乱の時代。
大いに治安が乱れ、僧兵は跋扈し、人々は疫病や飢餓に怯えて、 正にこの世の終わり。と共に、幾つもの新しい仏教宗派が誕生する。
鎌倉新仏教が、産声をあげはじめる、夜明け前でもあった。

おっと、話を、現在のインドへ戻そう。
ところで、このストゥーパも、 インド仏教の悲しい暗黒の時代を見て来た、遺構の一つだろうか?

煉瓦を積んで造られた、ストゥーパを良く見ると、建築物の間に幾つも部屋が仕切られて、中には、破壊された石仏が見れる。
一眼レフの望遠レンズで、もっと細部まで見ると、どうやら、あの頭部と右上半身を喪失した坐像は、釈尊(ブッダ)のようだ。
何故なら、右上半身は無いが、台座に残った右腕の手元は、昨日、クシナガルで見た、石仏と同じ、降魔成道・触地印を結んでいる。

痛ましい、姿である。破戒されても、釈尊(ブッダ)らしき石仏が、 結んだ印は“悪魔と戦い、勝って悟りを開いた”と、伝えている。


戦火にまみれストゥーパは破戒され、壊れた石仏も放置された。
気の遠くなる歳月を経て、風に運ばれた土埃が、雨で固まり、土が少しずつ堆積し、樹木や草花が覆い茂り、自然と山になった。
悲惨な戦争の記憶も、仏教徒の悲しみも、深い土の下に埋めて‥
そこには、凡夫の想像できない、「インドの時間」が流れていた。

インド仏跡巡礼(21)へ、続く

(2014年4月25日 記)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?