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京から旅へ / インド編 インド仏跡巡礼⑲ いざ、ヴァイシャリ

昨日、時間の都合で回れなかった、クシナガルでの見学を終え、 ホテルに戻り、朝食をすませた後、9時20分にバスは出発した。

濃い朝霧も消え、窓の外はまた、のどかな農村風景が流れている。
目指すはブッダ八大聖地の「ヴァイシャリ」と「ラージギル」である。

ヴァイシャリは、前回のブログ「自燈明 法燈明」でも触れたが、 最後の旅へ出た釈尊(ブッダ)が、この町で雨季の雨安居を行い、 その時、体調を崩し、自分の死について修行僧へ語った場所だ。

当時、此処は商業で栄えた美しい町で、以前から釈尊は、説法 などで良く訪れていた、お気に入りの場所だったようである。 病から回復して、ヴァイシャリを後に、旅だった釈尊(ブッダ)は、 これでこの町も見納めと、ゆっくり振り返ったと、云われている。


現在、ヴァイシャリでの見所は何と言っても、あのアショカ王が 建立したストゥーパ(仏塔)と仏蹟地だった事を示す、石柱である。

仏教を“国を統治する基本”に据えたアショカ王は、釈尊(ブッダ) 入滅後に分骨された、八ヶ所のストゥーパ(仏塔)の内、七ヶ所の壺 の骨を再分配し、インド中に八万四千のストゥーパを建てている。
インドでは“数多い”事の喩えに“八万四千”と言うらしいが、 日本で言う、八百万(やおよろず)に、似ていて、面白い。

何れにしても、アショカ王が建てた数多くのストゥーパが、仏教の 教えそのものでなく、仏教に帰依させる装置(参拝対象)として 機能し、広く仏教を浸透化させることに、役だった事は確かだろう。

釈尊としては、釈尊亡き後、修行者は、他を拠り所とせず、また、 他の法を拠り所とせず、自らを拠り所とし、また、釈尊の法を 拠り所として、精進する事 を願ってはいたが‥
釈尊入滅後200年以上を経た、アショカ王の時代の人が、仏教に抱く 思いの違いこそが、仏教の流れに支流化を及ぼしたのか、知らん。

ヴァイシャリのストゥーパも、そんな数多い参拝地の一つだが、特に 此処は、アショカ王の石柱が、綺麗な形で残されているので有名だ。

初日に、ルンビニで見たアショカ王の石柱は、天辺に飾られていた はずの石造の馬が喪失していたが、ヴァイシャリの石柱は天辺に、 獅子の石造が綺麗な形で、ちょこんと、座っている。
どの、旅のパンフにも載っていて、とても愛らしい、ライオン丸である。
仕事柄、自然石に彫刻された、無垢の石仏や石造物を見るのが好き だが、今回の旅では煉瓦の構築物や、金色の石仏ばかり‥ その意味では、ヴァイシャリの獅子に逢えることの期待は、大である。

予定では、ヴァイシャリまでは、188km。約4~5時間かかる。
途中で一か所、別のストーパも見学して、何処かで昼食もとった後は、 ヴァイシャリまで、一気に走るようだ。

ヴァイシャリの後は、今夜の宿泊地のラージギルへと向う。
ラージギルは、仏教が布教された町として有名だが、 其処までの距離も、なんと、165km.ある。

ネガイ~マシテ~、 ヴァイシャリ188kmナ~リ、ラージギル165km.ナ~リ 合わせまして~、本日の走行距離合計は 353km。ゴメイサン^^
丁度、江戸城(皇居)から名古屋城が、354kmで同じくらいの距離。
ナビによると、東名高速を飛ばしても、4時間29分かかる。

この、デコボコ道が延々と続いて、牛車や農業用車も併走する、 インドの交通事情で、本当に全部を見学して行けるんか? 今から走って、夕飯までに、ホテルに入れるんか?

聞くも恐ろしく、ガイドも素知らぬ、アルカイク・スマイルで‥
大きな疑問符を満載しながら、バスは、 いざ、ヴァイシャリへ。

インド仏跡巡礼⑳へ、続く

(2014年4月19日 記)

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