“書く“ということ(115/365)
”書く”ってすごく豊かなことだと思う。
経済的に豊かとかじゃなく、なんというか人間的に。
僕もこうやって毎日noteを書いているのだけれでも、その分人の文章を見る機会も増える。
それらを読んでいて改めて感じた。
日々の日記としてブログを書いている人もいれば、感じた事をそのままエッセイとして書いている人もいる。
おそらく日常生活で人には言わないであろう負の感情だったり、心に抱えている何か分からないけど引っかかっているものだったりを言葉にしている人もいる。
決してポジティブな事を書いている人ばかりではない。
しかし、書くことにおいて内容はそこまで重要ではないと思っている。
文章がうまいとか有益性があるとか、稼いでいるとかもどうでもいい。
”書く”ことそのものに価値がある。
文章を書く人は、優しくて真面目て繊細な人が多いんじゃないかと思う。
周りからは信頼され、ある程度充実した人生を送っているように見られている人。
何事にも笑顔で毎日を過ごしている人。
しかし、どこか疲れてしまう人。
時に生きるのが億劫に感じてしまう人。
そんな心の揺れ幅が大きい人。
楽しい日常を綴りたくなる時もあれば、ネガティブな事、溢れてきた感情を綴りたくなる時もある。
書く時はもう一人の自分になっているというか、他の何者にも邪魔されない別世界にいる感じ。
書くことは、自分という曖昧な存在はここに生きているという事を訴える手段。
書くことで自分を表現している。
書くことの何が面白いって、色んな表現ができる。
特に日本語は漢字もあればひらがな・カタカナもある。
同じ音の漢字も複数ありどれを使うかで意味合いが変わってくる。
ある事を伝えるのに、あえてその言葉を使わずに伝える事もできる。
また、書くということは、その場で人に見せるわけでもないと思うので、書きながら悩める。
試行錯誤できる。
僕も書く時はあえて読み返さずそのまま出す時もあるけど、文章の順番を入れ替えてみたり、削ってみたり、自分の想いをよりリアルに表現するためにはどうしたらいいか考える。
自分の納得できるものを創れる。
ダンスや歌、絵と同じで創作だ。
アートだ。
そして文書を書く上で使われる言葉は誰しもが持っている。
しかし、この誰しもが持っているものから創り出されるものなのに、全く同じものは存在しない。
それは自分自身であっても。
仮に毎日同じテーマで作文を書いたとしても、一言一句同じ文章にはならないはずだ。
現に僕が今書いているこの文章もトイレから帰ってきたら画面が真っ白になっていて、すぐに書き直したとしても同じものにはならない。
再現性がないとも言えるか。
このように、書くことにおける表現の幅は無限大だ。
だからこそ文章からその人の人となりなどが伝わってきて面白い。
そして、こんな”書く”ことを好んで行っている人は豊かな人なんじゃないかと思う。
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