伏せたまつ毛の
初めて何かを体験する、というとき。その瞬間の眼差しの美しさを昨日感じた。
わたしには3歳の双子のむすめがいる。喋り、考え、泣いて、踊る。そういう二人の子どもがいる。昨日はお迎えに行った帰りにいつも一個だけ食べるグミが切れてしまい、コンビニへ行った。
コンビニへ子どもを連れていくのは、少し億劫だ。まず、車から二人の子どもを降ろすのが最初の手間だ。チャイルドシートのシートベルトは冷え切った手には固い。ドアの外から「おりといで」と言ってもすぐに降りてこないことも多い。運転席の横のティッシュが気になったり、リュックの置く向きやジッパーの位置が気になったりするのだ。
やっと降りて来たら、ドアを閉めてカギをかける。勝手にドアが閉まって、勝手にカギがかかる車だといいのだけど、我が家のマイカーは中古車でそこそこ古いので、すべて手動だ。待っていた二人の手をとり、車にひかれないようにしっかりと両手で手を繋ぐ。
「車にひかれないように、駐車場では大人と手を繋ぐ」と教えていて、おそらく聞き分けの良いタイプの人間なんだろう、そういった命に関わる約束を破ることはほとんどない。とても育てやすい子どもだろうと思う。
そういえば先日、わたしの友人と出かけたときのこと。スーパーから出たときに双子のひとりが友人の手を迷わずぎゅっと握っていて、ずいぶん微笑ましかった。急に手を握られて驚いた友人が、前を向いてわたしの子と並んで歩いている様子にも感動した。わたしの高校時代からの友人と、わたしが最近産んだ子どもがひっしと手を繋ぐって、過去と現在がひとつながりである証拠でしかない。楽しかった時間も、自分を恨んだ時間も、今も、すべてちょこっとずつ繋がっているんだな。
双子と手を繋いで、コンビニへ入った。「今日はグミだけ買おうね」と言うと「グミだけね!」「グミだけかう!」と既にテンションの高い二人。「自分が好きな味のグミ、ひとつだけ選んでね」と声をかけてみた。いつもなら「ふたりで相談して一つだけ買おうね」なんだけど、なんとなく二人が自分の好きな物を選ぶところが見たかった。
ひとりは「りんご!」とすぐに決め、ひとりは「…もも!」と少し考えて決めていた。高いところにある商品を、ひとつずつ二人に手渡した。グミの袋を握りしめて、レジに向かう。子ども自ら「おねがいします」と言ってグミを台に置くと「シールにしましょうか」と笑顔の店員さんがわたしに声をかけてくれた。お願いしますと答えて、シールを貼ってもらう。
シールのついたグミをもらい、コンビニの自動ドアへだだっと走る双子。財布にレシートを詰めながら「歩いて!」と制する。自動ドアが開き、その前で同じタイミングでピタッと止まったふたりがニヤニヤとこちらを振り返った。「ちゅうしゃじょうだからてをつなぐんだよね」と言うので、「そうだね。でも、その前にお店では走らないよ、歩くよ。」と言うと、「はーい」と二人して手を握ってきた。グミがあればハッピーなのだ、叱られても。ハッピーの源を持つって、とても喜ばしいことだ。今のわたしにも、ハッピーの源はあるだろうか。
グミを持つ双子を車に乗せる。降ろしたときより幾分かスムーズだ、シートベルトをしめたら、グミを食べていいと伝えたからだろう。
金属を押し込んで、カチャっとベルトを閉めた。途端にグミの袋の上部に手をかけるふたり。「あけて」と言うと思っていたけれど、自分で開けられるんだね、小さく驚いた。
少し、その様子をドアを開けたまま見つめていた。グミの袋は横向きに切り込みがあって、そこを少しずつ引っ張って開ける。桃味のグミを選んだひとりは、ぴーっと切れ込みから一気に袋を開けた。林檎味のグミを選んだひとりは、切れ込みを少しずつひっぱり、ぴり、ぴり、ぴりと三回に分けて袋を開けた。とても真剣で、厳かな表情だった。切り取った後も三秒ほど切れ端を見つめて、ドアを開けたまま中を覗き込むわたしに「はいどうぞ」と切れ端を手渡した。
運転席に乗り込んで、切れ端をゴミ袋にいれながら、iPhoneにメモをとった。
慣れないことを自分でやる、という場面には多かれ少なかれ慎重さが伴う、ように思う。今月で三十路を迎えたわたしでもそうだけれど、グミの袋を開けるだけのことにここまで真剣な眼差しを向けた子ども。その目が美しかった。伏せたまつ毛の一本一本が、ぎゅうううっとグミに向けられていた。
そんなことを、思った。
わたしもわたしのハッピーの源について、考えるときだよなぁ。
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