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雑文(94)「ミキサー」

 老いた母と二人暮らした安アパートの室内は、出版社勤めの売れない雑誌記者である僕には、いささか広すぎた。
 母が、国管轄の「未来の家」に移ったのは、ほんの数日前だから、僕の抱く違和感は当然だろう。けれど、母の下した苦渋の決断は一生、僕の心の奥底に暗い影を落とし、それは悪性腫瘍のように患部に根付くにちがいない。
 発端は、半世紀前に他国から積極な移民受入れを開始した国の失策にあり、安い賃金で誠実に働く彼らは、我ら先住民の職を奪い、やがて経済格差による貧富の差が生まれ、それは都会から地方へ拡大し、多子高齢社会を形づくるきっかけになった。慢性な食糧不足に陥る国難は近年、自衛隊支援の穀物由来オートミールの配給遅延を起こし、全国各地で怒れる市民による暴動を招き、もはや経済回復は望めない、という小難しい話を講義形式で、大学で経済を学んだ友人が得意げに同窓会の席で雄弁に語っていたのを、いまでも鮮明に思い出せる。
 いずれにせよ、老いた母はわずかな謝礼と引換えに、その命を奪われる。母はまもなく死ぬ。
 
 館内見学の際に係員の女性から貰った施設パンフレットによると、「未来の家」は、安楽死を斡旋する国指定の独立法人で、深刻な環境汚染や年々増え続ける人口を抑えるために、国の環境庁が創設した未来指向型の次世代自立支援を目的とした公共施設である。
 説明書きを読んでも僕にはよくわからないが、小綺麗な施設を見終わった母は、えらく気に入ってしまい、明日にでも入所したいと、係員の女性に申し出るのを、他の希望者の目に晒されながら僕は恥ずかしく思ったものだ。
 その母の入所が正式に決まり、数日前に母は迎えのバスに乗って、僕の元から去った。
 食い扶持が減るだろうとか、お前の安月給じゃ私を養えないとか、お荷物が減って清々するだろとか、本心かわからない軽口を吐いた母の笑顔が、僕の頭の中にはいまでも浮かぶ。
 あれから数日なのに、母を失った喪失感は僕を体の芯から苦しめ、孤独な自宅にいる僕を息苦しくさせる。
 質疑応答の際、係員女性の説明によると、入所後母は白いベッドの上で薬物を投与され、安らかな死を迎える、まもなく焼却炉で焼かれ、灰になった母は肥料に、痩せた土地に撒かれ、土に還る、季節は巡ってやがて穀物が収穫され、僕らの大切な食糧になるという。母は死んでも人類の役に立つらしい。それは名誉なことだと、生前の、いやまだ死んでいないが、感心しながら母は、説明する女性の話に敬聴していた。
 お前を残して死ぬのは正直悲しいのだけれど、これもお前のためだと、最後僕に本音を語った母は、涙ぐんだ。別れるほんの数分前だ。僕は母を、痩せ細った母の体を抱きしめ、別れを惜しみ、ありがとうと、これまで面倒を看てくれた感謝を述べる。母は若返ったように僕に微笑むと、頭を撫でて、僕を子供扱いにすると、迎えのバス運転手の男に肩を抱えられながらバスの中に乗り込み、そのままバスは僕を置いて、行ってしまった。
 僕がもっとしっかりしていたら、率直にいうともっと稼いでいたら、母を手放すことはなかったろう。
 けれども、昨今のコンプライアンス強化による煽りを受け、芸能人らの不倫ネタや薬物所持疑惑などのスキャンダルは不道徳な過激な内容だと、文科省お役所から表現方法の細かい規制がなされ、また違反した場合、国の処罰対象になる法整備がおこなわれ、出版物は軒並み売れなくなった。また有能な記者は国を見限り、海外に移住する者たちが増え、質や量も全盛期とは比べようがないほどに落ちた。結果、僕らの業界は衰退し、僕は食えなくなった。そして母を養えなくなった。
 母と引換えに受け取った謝礼も半年の家賃で消えるから、そこから僕は一人で、母なしで生きていかなければならない。誰の支えもなしに、僕は孤独に耐えるしかない。
 
 脳裏に焼き付いた母の笑顔を僕は無意識に浮かべる時、あることに気づいた。
 母は昔、奥歯を抜いた際に金歯を代わりに入れた。金といえば、歯ほどの大きさとはいえ、現在価格は高騰し値打ちがある。あれがあれば当分は生活に困らないだろう。正確には数年は生きながらえる。
 思い立つと僕は、「未来の家」の住所をネット検索で調べ、公式サイトが表示されると帳面に書き写した。駐輪場に停めてある愛用のママチャリに跨がると、あっちだと指を差して車体を回して、ペダルを立ち漕ぎで走らす。
 到着すると、すでに本日の受付け時間は終了し、館内は薄暗かった。
 取材で身に付けた技術を駆使し、小細工した窓から館内に忍び込むと、静かな廊下に出て、僕は母の居所を探すため、事務所に侵入する。
 鍵を壊して室内に入ると、めぼしい机の引き出しを開け、索引からカルテを探る。母の名を見つけて取り出し、所在を覚えると僕はファイルを元の場所に戻して事務所を出て、廊下を進んで母のいる居室をめざす。
 ドアを開けると、ベッドに横たわるはずの母はすでにいない。
 遅かったかと、僕は絶望しかけたが、出入り口近くにキャスター付きワゴンを見つける。しかも天板には、生前母が身に付けた鼈甲ブローチや夫形見の結婚指輪ペンダント、僕が母の日に贈った真珠のイヤリングなどがステンレス皿の上に並んであって、それが母の遺品だとわかった。
 賭けてみるかと、発覚したら悪ふざけでしたと謝ればいい。記者の強引さが、僕を勇気づける。
 ワゴン下に布カーテンで仕切られた大容量のダストボックス内に身を屈め、しばらく息を潜めていると、ドアが静かに開いた。足音から二人組か、その内の一人がワゴンを押して、僕をどこかに連れていく。
 エレベーターを乗り継ぎ、ある部屋に入ると、僕を押してきた人と、その相方の気配が消えた。それから五分後、僕は折り畳んだ体を伸ばし、ボックスから外へ、床に転がるように出ると、ここがどこかと、血行の悪い腰を叩きながら周囲を窺う。
 薄暗い場所だったが、段々目が慣れてくると僕は、思わず口をついた。
 
 ミキサー
 
 それは人が一人収まるほどの大きなミキサーで、底には、鋭利な回転刃がむき出しに装置され、大量の果物や野菜を処分できるジューサーだと見受ける。
 しかし、目を近づけて観察してみると分厚いガラス裏側にわずかだが、毛くずが付着してある。
 ここでなにがと、僕は怖くなる。
 記者の勘が、唐突に働いた。慌てて運んだのか、床に見なれた物が落ちていたのだ。それは、僕らの日常食である穀物由来オートミールで、袋詰めのまま放置されてあった。
 記者の直感が僕に訴える。この事実を世間に公表すれば、一大スクープになるぞと、僕は小躍りしそうになるが、いや小躍りしていた。
 社の編集長も僕の功績を認めて、もしかするとデスクのチーフに推薦してくれるかもしれない。そうなれば、いまの貧困生活から抜け出せる、それにきっと社の女性陣も僕を放っておかないだろう。告白されるかも、あるいは求婚されるかもと、僕は妄想に耽って笑う。それが災いしてか、記者本来の危険察知能力を著しく低下させ、注意力を欠いた僕は──、

 なんだ、どうしたと、僕は最初気づかなかった。
 
 床に倒れた僕の頭を、勢いよく男が蹴り上げる時にはじめて、僕は後頭部を鈍器かなにかで殴られたんだとわかった。
 その男の他に、別の男もやってきて、無線でなにやら話しているが、耳が遠くなって、会話の内容は聞こえない。
 男たちが互いに肯くと、なにか刺激を感じて、僕の意識はそこで途絶えた。
 
 気づいた時には僕はミキサー内に閉じ込められており、真正面に男が立ち、もう一人の男は制御盤の前に立っている。
 出してくれと、これは悪い冗談かと、ガラスを叩きたかったが、なぜか力が入らず、僕の体は、それは別の男の体のように、いっさい動かせない。
 真正面の男が、制御盤の男に目配りで合図し、激しい振動の後、僕の視界は赤く染まる。
 回転刃のキーンというトルク音だけが、僕の骨伝導を通じて伝わる、徐々に沈みゆく僕に「死」を警告してあった。

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