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『上井草の駐車場』人生万景

 今日は入学式らしい。
 早朝、中学校の近くに駐車していたら車のボディが桜モデルに変わっていた。
 アクセルを踏むたびに車から花びらが剥がれて飛び去っていくのが見えた。
 自分の入学式はどうだっただろうか、と目を細めてみた。
 記憶はかなり僕から剥がれてしまっているようで。思い出せる部分を繋ぎ合わせても合計1分もないような気がする。

 いままで30年以上生きてきたけど。憶えている記憶を全部のぜんぶ繋ぎ合わせたとして、一体どれくらいの時間になるんだろうか。2時間もあるのかな。さすがにあるとは思うけど。ないような気にもなってくる。
 例えば、あのときのあれはどうだっただろうか、と集中して思い出そうとしてみる。集中して思い出せたとしてもほんの一瞬だけ。手のひらにのせたオレンジジュースみたい。どんどん輪郭は崩れて薄れていっちゃう。雰囲気とか誰がいたとかはなんとなくは思い出せるんだけど。あいつはそのときこんな顔していたよね、とかは言えない。見えない。聞こえない。
 思い出せないとかじゃなくて、もうわかんなくなっちゃってる。学生の頃の記憶だと。申し訳ないけど声ももう忘れちゃってる友達もいる。顔はわかるけど名前は忘れちゃった人もいる。もう友達じゃなくなったのかな。ただ集中力が足りないだけなんだろうか。だったらいいんだけど。

 憶えていることにカウントしてもいいのかよくわからない記憶もある。そもそも確かな記憶なんてあるんだろうか。記録のほうが哀しいけど正しい。だから僕は家族行事のような忘れたくないことがあるときは率先して動画を撮るようにしている。後日編集してまとめて家族に送るために。撮っている間は集中してそこで生きていないようで勿体ない気にもなるけど。忘れたくないし、忘れてほしくないから。
 記録を取っているから忘れてもいい、ということでもないんだけどね。

 脳よ、忘れたくないことはちゃんと憶えてくれていてほしい。神頼みじゃないけど、脳頼み。記録頼み。実際そんな感覚。自分じゃどうにもならないから。

 今日なにか忘れたくないことはあっただろうか、と振り返ってみた。吉祥寺のコピスの地下で米がすすみまくりそうな油淋鶏がこんなに入って598円!? で売られていたことが最初に頭に浮かんだ。

 僕は油淋鶏のことよりも、友達の声や名前を憶えていたい。

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