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見えるものも見えないものも大事にする感覚を持つ

最近、私の目は飾りなんじゃないか、と思っています。と言うのも、物語のイメージが降りてきているとき、目を開けているのに目の前の景色じゃないものに意識が行ってる頭の中の映像を『見ていたな』と、気づいたからです。

先日も、パートナーに「じっと一点を見てるけど、そこに何かあるの?」と言われて我に返ったことがありました。実際には物語のことを考えていて、何も「見て」はいなかったのですが。

◇◇◇

以前読んだ脳科学者の池谷裕二氏の本「できない脳ほど自意識過剰」によると、

「視覚野の97%以上は、目で見ているものと関係ない情報(脳内で勝手に生み出されたものを含む)を処理している。網膜からの情報だけでは詳細が不足していて『見え』ないので、これまでの経験に基づいて補完する必要がある(概略)」

「できない脳ほど自意識過剰」

とのこと。

また、見る=信じるに近い行為であり、脳は網膜からの情報と虚構とを区別することすら出来ない、とも書いてありました。かろうじて幻覚が見えないようにセーブしているらしいのですが、はてさて、私が見ているのは幻覚なのか、ただの想像なのか……。

◇◇◇

上記のことが真実ならば、私たちは人生を積み重ねれば積み重ねるほど、過去に経験したこと(映画やアニメなどの視聴も含む)や信念を元にして現実を「見て」いる、と言えるでしょう。つまり、脳内で理想の世界を描き出し、それをあたかも自分の目で見ているかのように感じながら生きている(可能性がある)わけです。

もっとも、それは私が、目の前の事象より頭の中に引きこもって物語を楽しんでいる方が好きだから(あるいは幼い頃から習慣にしているから)そう思うだけなのかもしれませんが、将来的にヘッドマウントディスプレイなどが普及してきたら、それは私のしていることと大差がないような気もするのですよね。それこそ、何が現実で何が虚構か分からなくなる日も来るかもしれません。

◇◇◇

とはいえ……

先日読んだ本の影響もあり、さすがにここ数年は(様々な要因が重なっていたにせよ)内的活動に偏りすぎていたな、と反省。春以降は「身体で感じること」を重視しながら生活していこうかな、と考えています。

というのも、頭の中に引きこもるのも好きなんですが、実は一人でぶらぶら街を歩いたり、見知らぬ土地に旅行したりするのも好きだったんですよね。

「内に閉じこもれるのは、外の刺激あってこそだ!」

と気づいたのは奇しくも感染症に伴う自粛生活や内観だったのですが、何ごともバランスが大事、と言うことですね。

目からの情報だけに頼らず、匂いや触った感じ、空気感など、身体が感じるすべての刺激をじっくり味わう時間を持つこと。そこから空想を広げ、内側の活動をおこなう中で「本当の私」「ありのままの自分」を感じたいな、と思っています。


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