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「普通」を改めて考える ~周りの言葉に惑わされず、素の自分で生きよう~

最近、また「普通」という語が気になっています。

「普通においしい」
「普通は○○だよね」
「それ、普通じゃないよ」

などなど、様々な場面で用いられる「普通」。しかし、使い方によっては誤解を招いたり人を傷つける恐れがある「取扱注意ワード」だと考えるようになりました。

「普通」を辞書で調べると、

一、 特に変わっていないこと。
ごくありふれたものであること。
それが当たり前であること。また、そのさま。

二、 たいてい。通常。一般に。

用法:「普通」は意味の範囲が広く、「どこにでも普通に生えている草」のように、ありふれている、珍しくないの意、「ごく普通の子」「普通科」のように、特に変わりがない・平均的・一般的なの意に使われる。これらは「普段」「通常」は使えない。

デジタル大辞泉

とあります。「普段」「通常」とは意味が近いようで、「普段」は常日頃の意に重点が、「通常」は文章語的で、いつも通り、特別の事情がないこと・場合に用いられるとのこと。


○「普通」=世間一般の常識のこと

もっと言えば、自分が教え込まれ、信じてきたルールを「普通」と表現するのだと思います。だからそもそも「普通」は一つではなく、年代や地域によっても変わるものだ、というのが私の考えです。

例えば先日の記事で取り上げた「目を見て、おはようなどの挨拶するのは普通」という考えの人ばかりがいるコミュニティーに「挨拶したり目を見て話したりするのが苦手(苦痛)だから、しない」という私がいると「普通じゃない」と見なされ、白い目で見られる、といったようなことです。これが、私の周りの人が皆、会釈だけで挨拶をするのが「普通」だと考えていたら、おそらく白い目で見られることはなかったはずです。


○自分(たち)とは違う存在に恐怖や不安を感じるから

特に日本はずっと村社会的な生活をしてきたので、いまでも突出した才能の人を見ると、叩いて引きずり下ろそうとしたり(つまり平にならそうとしたり)、仲間はずれにしたりして自分たちのコミュニティーや自己を守ろうとします。平均から逸脱した特殊な人=普通じゃない人は、自分たちとは違う考えを持っているから危険だ、理解できない、おかしいという思考になるのです。

私たちは幼い頃から「普通であること」を強要されてきました。それはつまり「自己を押し殺してでも周囲に合わせろ、適応しろ」ということです。それに違和感を持たず適応できる人はいいのでしょうが、私は適応しきれない部分があり、今でも「○○するのが普通=やらないのは許されない」空気には苦しんでいます。


○はみ出す勇気を持つ

それでもちょっと前までは、異国の地(夫の赴任地)のルールについていこうとしたり、自分をアップデートしようと慣れないことに挑戦してみたりもしましたが、やっぱり苦しかったし、かえって自分を見失う結果にもなりました。現状の自分を否定していたのだから当然ですよね。

「出来ない自分を認める。そういう自分をまずは感じることが大事」

この言葉と出会ってから、人にはどうしても出来ないことがあるし、それを無理やり「治す」必要はないと思えるようになりました。そもそも「治す」という表現自体が、社会に馴染めない人を矯正しようとしているように聞こえるんですよね。出来ないことが出来るようになりたいと自ら望む場合を除き、自分には向いていないことを無理強いされればストレスにもなるので、そういうときは自分を守るためにも「断る勇気」をもとうと思っています。


○「普通」を別の言葉で表現する習慣を持つ

上記のことを踏まえ、今後はこの万能な「普通」という語を避け、別の言葉に置き換えていこうと思います! そうすることで相手にも誤解を与えずに済むかもしれないし、語彙の幅も増えるはず!

たとえば、こんな風に表現するのはどうでしょうか。


・「普通」に楽しい(おいしい)
 → 思っていた通り、まぁまぁ楽しい(おいしい)

・「普通」の人
 → 社会的な人、模範的な人、目立った特徴のない人、従順な人

・「普通」はこうするよね
 → この学校(会社・地域)のルールや文化では、こうすることになっているよね

・「普通」の大きさ
 → 具体的な例を挙げる。例えば「ねこくらい」の大きさ など

・就職する(学校へ行く)のは「普通」
 → 社会性があり且つ収入が欲しい人、自己成長したい人は就職するのに向いている(社会性があり集団生活をしながら学ぶことが出来る人は就学に向いている)。

様々なケースや条件を織り交ぜてみましたが、具体的なワードを入れるとわかりやすいですね。身内や狭い地域であればお互いにわかり合えても、その枠を越えた世界では通じない。「日本人なら共通した意識を持っている」などという感覚もそろそろ変換した方がいいかもしれません。

私は、みんな違ってみんないいと思っているし、多様性を重んじ、認め合うべきだとも思っています。加えて、みんな違うならそれぞれが独自に行動してもいいとの考えですが、「社会の構成員としてそれじゃダメでしょ」という意見があるのももっともなことです。しかし、それ自体も多様な考えの一つだと私は思います。

一番の問題は、違う意見を持った人同士が、お互いの考えを押しつけ合うところにあります。それぞれの得意を活かしながら、協力していけばもっと世の中うまく回ると思うのに、「(一億総○○のような)全員がこうするべき」と一つにまとめようとするから反発や自己を押し殺して苦しむ人が生まれてしまうのです。

「普通」の人なんて本当は一人もいないのです。私たちは一人ひとりがまったく違った個性を持っているのです。動き回っていないと落ち着かない人を椅子に座らせておこうとしたり、一人で静かに本を読むのが好きな人に大勢の前で話させたりしても本来のその人らしさは発揮されないどころか、苦痛しか生じない。なのに、克服するのが素晴らしいことであるかのように声高に叫ぶのはいかがなものでしょうか……。

社会の空気はあまりにも統制されたもの、規格化されたものを求めすぎているように感じます。それが良かった時代、求められた時代はあったかもしれませんが、今はむしろバラバラである方が自然だということを思い出し、あえてそれを取り入れていくべきではないかと思います。

自分と同じ考えを持った人=普通の人=味方で、そうじゃない人は敵とみなすような、ゼロヒャク思考はやめてほしいです。そうではなく、人の感情には波があるし、同じ人でも時々で意見が変わることもあるのだと知って包容しあえる世の中になればいいなと思います。


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