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元気だせよ



自己肯定感というものをちらりと意識し始めてしまうと、それは私のなかのよくわからないものがまた白紙になってしまいそうな危険なサイン。そしてその低さについて、私がわたしと感情の討論している。さらには、自己肯定感がどうとかは正直、おまけみたいなもので、本質は、強迫観念の信号が不具合を訴え始めている、ということ。ここまでを言語化できるからしておく、しておけてよかった。

自分自身をなるべくゼロではない状態にするための行動を仕事というとするなら、私は仕事を頑張っていると思う。週五日のフルタイム勤務を仕事というなら、私は何もできていない。

最近ふと、忙しいなと思ってしまった。でもそれは、社会保険料が発生しない日々による、つまり「仕事がだるいな」と声をあげる人々と同じ土俵には立てない別の地面での、私がわたしのために存在したい場所に存在しているというだけのことに対して、わざわざと忙しいなどと思ってしまっているということで、思えば思うほどに「おまえは何を言っているんだ」と呼応する。私はわたしに誇れる私でいるけれど、社会の一員としてはろくでもない人間なのに、いち人前みたいな顔で忙しいとか冗談でも言うなよと思う。頑張っていても、それが事実でも、わきまえろと思う。認めているのにね。肯定しているけれど、遠慮もしているし、するべきだと思う。めんどくさい注釈をいれるとしたら『あくまでも私の話』というやつ。劣等感にまみれているけれど、劣等感ではなくて、私自身が劣っているのだから、感じるものではなくて事実だし。とか、その考えからいうと自己肯定感が低い、とラベルを貼ることも何かずれているのだろうけれど、そっちの分類であることは確かだと思う。でもな、認めるべきところは認めているはずなのに。そのうえで、事実を並べて、「やっぱりそうだよね〜」と再認識する過程で勝手に傷ついては、弱さを見せびらかしているだけなのに。嫌だね。

という、すり傷に対して過剰に反応しては、傷口を広げずにうまくもっと奥へ刺し込んで抉るような行為。これはわたしへの強迫。ふつうにつらい。

こうなるともう、あらゆることがアウト。それは今は言語化したくない。余計に意識をしてしまうから。嫌だね。

思考の大乱闘討論会が開幕した頃は、よくある平凡で必要不可欠な会だった。じわじわと長引いて、今ではもう手遅れ、お手上げ。閉幕できるか強制終了させるかまでは、私だってどうなるかがわからない。運が悪ければ、影響は私自身に対するものだけではないだろう。たのしい討論だったのにね。わくわくすることも、生まれていたのにね。誰だよルールを知らない余所者は。わたしだね。

気が済むまで吐いたら少しだけ納得した。済んでいないけれど、でも。だから今回は、エラー信号の原因であるわたしに私は勝てそう、たぶん。明日を迎えて、外に出られたら勝ち。私のために言葉を打てる私でよかった。元気だせよ。

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