山のりんご

 私は山が好きだ。好きだったというべきかも知れない。若い頃は、休みともなれば必ず山へ行った。かなり本格的に準備をして登ったものだった。仲間もたくさんいた。一人で登っているときでも、すれ違う人達とのふれあいが好きだったし、それを求めてもいた。けっこう危険な山にも挑戦したりして、実際、危険な目にもあった。

 私がまだ大学を出たての頃、日本アルプスのある山に挑戦した時のことだ。その日は前日も、また当日も天気予報は快晴の予報を出していた。私はそれでも用心し、万全の準備をして出発した。いつもの仲間達と予定が合わなかったので一人だったが、気持ち良く晴れ渡った空の下、快適に進んでいった。平日だったからかも知れないが、登山者がまばらで、少し淋しかったがあまり気にならなかった。私はどんどん登っていった。
 三時を少し過ぎた頃だったろうか、気が付くと私はまったく一人になっていた。それまでは少ないながらも常に一人か二人の人影が、私の視界に入っていた。それなのに今は誰もいないのだ。空は相変わらずの快晴だった。雲一つない。私は少し寒気がした。だが、そんなことは別に珍しいことではないと自分に言い聞かせ、ひたすら歩き続けた。あと二時間も歩けば山小屋があるはずだ。
 歩き続けた私の目に、山小屋はなかなか姿を現さなかった。日は暮れようとしている。私はあせった。体は休息を欲しがっているが、今、どのあたりを歩いているのか、疲れた頭では判断がつかなくなってきているのだ。この山に登るのは初めてではないのに、なんということだろうか。見慣れない光景が目の前に続いている。
 とうとう日が暮れてしまった。こうなっては野宿しかない。幸い準備はしっかりしてきたので、心配はなかった。天気も大丈夫のようだ。私は適当な木陰を選び、横になった。 
 うとうととまどろみ始めた頃、ふと顔をなでるかすかな風を感じ、私は目を覚ました。眠り始めてからまだあまり時間はたっていないようだった。やけに目が冴えている。夜空の月が鮮やかな光を放っていた。とその時、背後に気配を感じ、私は飛び起きた。振り向いた私の目に飛び込んできたものは、まだあどけない少女だった。じっと私を見つめている。なぜこんな時間に、このようなところで、何のために、次から次へと浮かぶ疑問で、私の頭はいっぱいになった。少女は見つめ続けている。吸い込まれそうに純粋な目だ。その目がふっと笑ったかと思うと、少女は近づいてきて、私の頭の方にある木の根元に座った。そして、なんとそのまま眠ってしまったのだ。すやすやと安心しきった寝顔を見ているうちに、私の体がだんだんと熱を帯びてくるのを感じた。そして、私もいつのまにか眠っていた。
 気が付くと朝だった。日がかなり高くなっている。寝過ごしたようだ。あわてて起きてみると、私の周囲の土が濡れている。夜中に雨が降ったようだった。しかし、私はまったく濡れていないし、私の荷物も無事だった。あの少女、あの子はどうしたのだろう。私はあたりを見まわした。誰もいなかった。ただ、少女の座っていたあたりだけ、土が乾いているのがわかった。そしてあの時、体が熱くなった感覚を思い出した。そうだ、りんごだ。あの子の頬はりんごのように赤く染まっていた。私はあの子が私を守ってくれたのだと思った。

 月日はたち、今私はもう山に登るには体力がついていかない年になった。あれから何度あの山に登ったことだろう。あの子にもう一度会いたくて、仲間に笑われながらもいつも一人で登った。登るたびあの木の下にたたずみ、待ち続け、肩を落とし、私は帰ってきた。そして、二度と会うことはなかった。
 今でも私ははっきりと覚えている。少女の純粋な瞳、そして、りんごを見ると思い出す、少女の赤く染まったまるい頬を。私はいつまでも忘れることはないだろう。