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#247 教育は社会を「分断」するが、学びは社会を「寛容」にする

「教育」を意味を広辞苑で引くと

教え育てること。人を教えて知能をつけること。人間に他から意図を持って働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値を実現する活動。

広辞苑

と書かれています。

この定義で注目すべきなのは、「教育」の主体が「教育を受ける側」にないこと。教師であれ、保護者であれ、自分なりの価値観があり、その価値観を信じて、子どもたちをそのような姿にすることを、「教育」と広辞苑は定義しています。

人をどう育てるのかという問いは常に「社会」の影響を受けます。
社会において「価値あるもの」とされているものに人は魅了されるもの。

学歴社会を生きる私たちが、教育という言葉がテストの点数や偏差値と強く結びつくのも当然だと言えます。教育(=点数・偏差値)というその人自身の経済的・社会的地位を確保するための有効なツールを獲得すれば、誰にでもこの社会の中でより幸せに生きていけるという考えが存在するのでしょう。

橘玲氏は、自身の最新刊『シンプルで合理的な人生設計』の中で、『教育は社会の分断をなくすよりも分断をさらに大きくしている』と語っているそうです。

アメリカでは、非大卒に対する大卒の収入プレミアムは70~100%(2倍)にも達している(日本は30%程度)。その結果、高卒の白人労働者層が仕事を奪われて社会から排除され、ドラッグ(鎮痛剤)、アルコール、自殺の「絶望死」が広がるとともに、トランプの熱烈な支持層になった。
日本はこれほどではないものの、それでも学歴(大卒/非大卒)によって社会に分断線が引かれていることが、社会学者による大規模な調査で明らかになっている。
こうした事実が広く知られるようになったことで、いまではリベラルな教育者ですら、「教育で社会の分断を解決できる」とはいわなくなった。現実には、教育は社会の分断をなくすよりも分断をさらに大きくしているのだ。

教育には、それを行う「国家(集団)」の意図と目的が存在します。国家の方針と、その結果として生まれた「学歴社会」の中で、機能する「教育」のあり方に歪みがきているのかもしれない。世界が多様化するVUCA時代において、教育という、ある意味では他者からの押し付けられた教育では、もう戦っていけないのではないか。

そんなとき、私たちは「教育」の可能性ではなく、「学び」の可能性を求めています。

学びとは、その主体は常に個人。社会や他者の価値観や思想に縛られず、新たな価値を創造します。

幸せとは経済的・社会的な豊かさを求めることと同義ではないし、逆にそれを求めるならば既存の「教育」ではダメなのかもしれない。

教育は社会を「分断」するが学びは社会を「寛容」にする

のかもしれません。

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