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#424 本質的な対話とは?〜論点をずらさないことの大切さ〜

 先日、小泉今日子氏と元NHKアナウンサー有働有美子氏の対談記事を読みました。

その中で小泉氏は、バラエティ番組に対する自身の感覚を以下のように述べています。

有働:我々からすると、松田さんも小泉さんも同じように雲の上の存在で、日常生活が想像つかないです。アイドル時代はステージ上で輝いていらっしゃいましたが、最近はテレビのバラエティ番組で全然お見かけしませんね。
小泉:絶対出たくないですね。
有働:なぜですか?
小泉:くだらないから。
有働:ワーオ! どういうところがくだらないですか?
小泉:どういうところも何も、素敵だと思いますか?
有働:……実は私もあまり見ないので、コメントが難しいですね。でも、小泉さんが昔、出ていた頃のバラエティと何が違いますか?
小泉:たぶん、昔と同じだからマズいんじゃないですかね。世の中がガラッと変わっていっているのに、昔のムードのまま押し通そうとしている。テレビ局は変わらないとマズいよね、と思っています。

 この記事の内容に対して落語家、立川志らく氏は、「『くだらないから出演しない』は看過出来ない。そのくだらない世界に命をかけている人も沢山いる」と述べ、バラエティ(お笑い)に命をかけている人たちの気持ちを理解して欲しいと語っています。

 小泉今日子氏は語りたいのは、バラエティ番組の作成のあり方、つまりその理念です。前提として、誰かを助け、笑顔にする全ての行為に価値があり、その価値を世に広めている人たちは、全員偉大です。自分の悲しみや苦しみを、修練を詰んだ技術を駆使して「笑い」に変え、人々の心を幸せにするその理念は、多くの人の共感を呼ぶものだと思います。

 一方、「笑い」というのは非常に難しい側面がある。それは、何を笑いに変え、どう作っていくのかということ。今までの「笑い」は、誰かを卑下し、差別し、偏見を増長させる内容、またその作成過程において人権や尊重を無視したものが少なからずあった(もちろんバラエティに限ったことではない)。誰かの本質的な不幸をもとに、人々に笑いを生み出すこと自体が、「笑い」の理念に反するものではないのか。時代が移り、社会が変わる中で、未だ旧態依然の現場に、小泉氏は警鐘を鳴らしているのだと個人的には理解しています。

 志らく氏の意見には同意です。その現場で必死に戦っている人たちを誰も軽蔑することはできません。

 この2つの記事を見て思うのは、最初の記事が、人の「趣旨」を明確に伝えきれておらず、結果、議論の論点がずれる展開になる。

 誰かが誰かを軽蔑し、その軽蔑に対して怒りが生まれる。怒りは、他者との不必要な対立や暴力を生み出す。論点がずれることで、自分の主張や意見が誤解され、間違った方向に進んでいく。私たちの日常生活の中でもよく起こることでしょう。

 私たちは日々、さまざまな課題に直面し、その解決に向けて、他者と協力して行かなければなりません。そんな中、私たちが用いることができる最大の武器は、「対話」です。対話は、互いの存在への尊重と多様性を基盤として、解決するべき課題を明確にし、自身の意見や理由を忌憚なく適切に表現し、その表現されたものに対して、知識や事実、相互的な感覚をもとに、より良い形を模索することです。対話は誰かを否定したり軽蔑することから決して生まれないのです。

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