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 子どもたちの教科・科目の力を鍛えること。それは授業の大きな目的の1つ。そのためには授業担当者には「教科観」が必要になります。教科・科目力を明確に定義し、その特性・特徴、適切な学習法を理解し、学習者の段階に応じて適切な課題を与えていくことが求められます。

 国語力を鍛えること。素人ながら英語を鍛えるよりもよっぽど難しいと感じています。私には「国語力」なるものの正体がそもそもあまりわからない。しかし英語力を鍛える上で最後には国語力に行き着く。それは英語だけではないでしょう。あらゆる物事は自分の母国語の力をベースに培われていく。一方、私たち日本人にとって日本語は当然最も慣れ親しんでもので、ある意味「空気」。当たり前すぎる事柄に対する「能力」を鍛えることほど漠然したものはないなと個人的には感じていました。

 『子どもたちの国語力が危ない 〝ごんぎつね〟が読めない衝撃』という記事を見つけました。

『「ごんぎつね」の読めない小学生たち』で話題になった石井光太さんは、子どもたちの国語力、いわゆる〝読解力〟が低下している状況をリアルに伝えています。

 「読解力」とは文字通り、「文章を読んで理解する力」ですが、ここで難しいのは、「文字化されていない情報を文字化されている情報から獲得すること」であると感じる。それはつまり記事の中で言及されている「行間を読む力」と同義なのかもしれない。記事の中ではごんぎつねの中で描かれる様々な情景描写を、本来と意図とかけ離れた文脈で捉える子どもたちがいることを挙げ、読解力には人間として持つべき感性・情緒を理解する力の欠如を指摘している。情緒力とは「他人の痛みを自分の痛みとして感じる力」「美的感性」「懐かしさ」「家族愛」「郷土愛」「名誉や恥」といったもので、いわば人間の土台となる教養や価値観、感性が必要であることを示唆しています。

 つまり国語力を鍛えること、読解力を鍛えること、はある意味ではその人の人間的感性や倫理観、共感性などを鍛えることと等しいと言うことになる。国語力=道徳力と言い換えることができるのではないか。もしろん言語能力は、言語に触れる量と、その触れ方が大切であるとも言える。昔から多くの本を読書することや、家庭での発話量によって、その基盤が培われると考えることは自然でしょう。

 一方、記事の中で近畿・首都圏で学習塾を運営する開成教育グループで上席専門研究員を務める藤山正彦氏は実は、ただ本を読むだけでは読解力はつかない。人に指摘されて初めて身につく」・「自分が何を読み飛ばしてしまったのか、自分と他人とで見方や捉え方がどう違うかは、人の指摘が入らないと気づかない」と指摘しています。

 国語力は私たちが学びを進めていく上で、全ての土台になる大切な力。だからこそ、私たちは国語力というものの正体をしっかり認識する必要があるのだと思います。

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